今回は鎖国とは? 出島と貿易、鎖国の影響について、日本の歴史を紹介します。
出島と貿易
幕府は、キリスト教を取り締まるために貿易の方も、次第に制限していきました。
1635年(寛永21年)には日本人が海外に出ること及び、海外にいる日本人が日本に帰ってくることを禁止しました。
一方、貿易の相手国もだんだん減っていきました。
イギリス人はオランダとの競争に負けスペインは、国の力が衰えて、どちらの船も日本に来なくなりました。
そこへ、島原の乱がおきたのです。
幕府は、ついに、1639年(寛永16年)完全に信者を根絶やしにするためキリスト教と関係の深いポルトガル船が日本に来ることを禁止してしまいました。
その結果、貿易の相手国は中国とオランダの二つだけになりました。
1641年(寛永18年)にはオランダの商館が、平戸から長崎の出島に移されました。
出島は、初めポルトガルの商館をおくために造られたれた4000坪(約1.3ヘクタール)ほどの扇形の埋立地でした。
出島は狭いながら中に花園が造られ牛や豚や羊まで飼われていました。
カピタン(商館長)を入れて10人ほどのオランダ人といつも何人かの黒人とそれに日本人の役人や通訳がいました。
オランダ人は、出島の中で日本から決められた船の数、決まった金高の貿易をし絶えず、何か怪しいことはないかと見張りをつけられていました。
その結果、幕府は外国との貿易を自分の手で行うようになったのです。
毎年、カピタンはたくさんの土産を持って遥々、江戸の幕府のところへ貿易のお礼を述べにいきました。
また、幕府では、毎年オランダ船が長崎の港に着くと、世界の様子を書いたもの(オランダ風説書)を出させました。
これが、世界から閉ざされている日本人にとって、外国の様子を知るただ一つの方法でした。
しかし、これも幕府の上の役人たけで普通の武士や一般の人たちには何一つ知らせてもらえませんでした。
鎖国の影響とは?
鎖国とは、国を閉ざすという意味です。
幕府は、鎖国によってキリスト教信者を上辺だけでもなくすることができ封建制度を長く続けることができました。
しかし鎖国は、果たして日本のために良かったでしようか。
この問題は、古くから学者たちの間で議論されてきました。
ある学者は、鎖国をしたために特色ある日本の文化や産業が発達したから良かったといいます。
また、ある学者は日本が鎖国をしている間にヨーロッパの国々は古い封建制度の社会から新しい市民社会へ進んだのに日本は、世界の動きから取り残されて残念だと言います。
どちらにも、それぞれ理屈はあると思いますが何にしても、200年あまりの長い間世界の人々から離れて生活してきたことは不自然だったと言えるでしょう。