今回は隠れキリシタンとは? 幕府の取り締まりと隠れた信仰
キリシタンの復活について、日本の歴史を紹介します。
隠れキリシタンとは?
江戸の幕府は家康以来どの将軍もキリスト教を禁じてきましたが島原の乱に懲りて一層取り締まりを厳しくしました。
そして、信長を見つけ次第、情け容赦なく殺しました。
一方、幕府のどんなひどい仕打ちにも関わらず信仰を捨てまいとする人々がいました。
昔から信者の多かった九州、特に西海岸の長崎の付近や五島・平戸の島々にかけての農民や猟師たちの信仰は熱心でした。
この人々を少しでもキリスト教徒らしい行いを見せると殺されるので、上辺は仏教の信者のように装って心の中でキリスト教を信じていました。
隠れキリシタンは、人が死ぬと見張りの役人のいる間は仏教の僧を呼んでお経をあげてもらい葬式が済んで役人が帰るとキリスト教の葬式でやり直しました。
信者たちはイエスやマリアの御像を拝みますが見つかると大変ですから観音様に似たマリアをつくったり十字架を壁に塗りこんだりしました。
また、信者どうし、人目を避けて、こっそり夜中に集まりラテン語でお祈りをしたりしました。
これらの人々の中には洗礼を授けたりマリアとジョアンとかの洗礼名をつける役、それを帳面につける役がありました。
さらに、日曜日とか信者に関係深い日などをふれ歩く役もありました。
これらの役は厳しい役人の見張りの中で信者どうしを固く結びつけ隠れた信仰が見つかるのを防ぎました。
いずれにしても、この信者たちは、世間に隠れて密かに信仰を続けていたので隠れキリシタンと呼ばれました。
彼らは、200年間も宣教師なしで秘密に信仰生活はを送ってきたので儀式やお祈りの文句ももとの形と少しずつ変わってきました。
御影も、ちょんまげをゆったキリストや元禄まげにゆったマリアが出てきたりするようになりました。
明治になって、誰でも自由にキリスト教を信じてよいことになりました。
長崎付近の浦上(今は長崎市)やその他の隠れキリシタンは新しくフランスから来たカトリックの宣教師の言う事を聞いて、正式に教会へもどりました。
ところが、自分たちのものこそ本当のキリスト教だと言い張って、どうしても教会に戻らない人たちまでも長崎県下には五、六万あまりいるといわれています。
教会では、こういう人たちのことをカトリック教会から離れていった人たちという意味で「はなれ」とも呼びます。