今回は江戸時代の慶安事件について、日本の歴史を紹介します。

浪人の取り締まり

幕府の仕組みも三代将軍家光のときにだいたい、整えられました。

家光は「自分は祖父(家康)や父(秀忠)と違って生まれたときからの将軍である」と言って大名たちを抑え付けました。

このように、威張れるだけ幕府の力が強くなったのです。

しかし、1642年(寛永19年)に寛永の大飢饉があり、この頃から幕府の家来である旗本の暮らしが苦しくなってきました。

また、関ヶ原の戦いの後から幕府が多くの大名の領地を取り上げたり削ったりしたため、大名の家来で失業する者がたくさんでてきました。

これを浪人といいますが、その数は、多いときは50万にもなったと言われています。
幕府は浪人を追放し厳しく取り締まりました。

このため、生活に追い詰められた浪人たちの不満が、だんだん強くなりました。

慶安事件とは?

1651年(慶安四年)に家光が死んで家綱がわずか二才で四代将軍になりました。
その年に慶安事件がおきたのです。

由井正雪という浪人が丸橋忠弥ら3000人の仲間を集めて幕府を倒そうとする企てがもれ忠弥は江戸で整えられ正雪は駿府(静岡市)で自殺した事件です。

正雪が、本当に幕府を倒そうとしたかどうかはっきりしませんが幕府を、すっかり慌てさせたことは事実です。

幕府は、この事件のあと浪人の取り締まりを緩めて職を世話しさらに末期養子の禁も緩めました。

末期養子の禁というのは大名でも旗本でも、後継の子がないときは養子をして家を潰せるのですが死ぬ間際に、慌てて養子をすることを禁止していたのです。

このため、家が潰れ領地を取り上げられる者がたくさんでました。

それを、こんどは50才以下であれば末期養子を許し浪人が新しく増えないようにしたのです。

殉死の禁止

幕府は、この他戦国時代から続いていた悪い習わしを、次々に無くそうとしました。
殉死の禁止事も、その一つです。

戦国時代から、主君が死ぬと可愛がられていた家来が後を追って自殺することが行われそれが忠義だとされましたが、この習わしも、だんだん形式的になり死にたくもないのに腹を切らなければならない者もでてきました。

そこで幕府は殉死をしてはいけないと禁止したのです。
また、大名の家族を人質として江戸におく証人の制度も取りやめました。

歌舞伎者

この頃、歌舞伎者と言われ、わざと人目につく格好をして乱暴なことをする者がたくさんあらわれました。

これには、浪人もおれば旗本もいました。
芝居で有名な幡随院長兵衛や水野十郎左衛門も、それです。
彼らは主君を主君と思わず仲間を作って、喧嘩ばかりしていました。

幕府は社会の仕組みを破る者として厳しく取り締まりましたので歌舞伎者は、次第に姿を消すようになりました。

関連記事