今回は幕府と儒学 徳川光圀と大日本史について、日本の歴史を紹介します。

幕府と儒学

このような戦国時代の習わしを改めて封建制度の世の中を固めていくためには武力だけでは、充分でありませんでした。

学問の力で、だんだん教え導いていく必要があったのです。
しかし、神道や仏教にはそのカがありませんでしたので儒学の教えが取り入れられるようになりました。

儒学というのは中国から伝わった学問です。
中国の孔子や孟子の教えがもとになって儒学という学問ができました。

そして政治家の心得とか家来が主人に仕える態度とか親子兄弟の道徳などが儒学の中心になっていました。

朱子学とは?

幕府は、儒学の中でも朱子学を一番重んじました。

朱子学は、宋の朱子という学者が始めた学問で身分の差別をはっきり認めそれをいつまでも守るのが正しい姿であると教えたからです。

家康は、藤原慢嵩や林羅山などの学者を召抱えて、いろいろな仕事をさせました。
羅山は、武家諸法度を作った人と言われます。

湯島の聖堂とは?

儒教が幕府や藩の政治に取り入れられてくると儒教を開いた孔子を祀るところ(孔子廟)がほうぼうに造られるようになりました。

五代将軍綱吉のとき江戸の湯島に、立派な聖堂が建てられ、ここの地名も孔子の生まれた昌平郷から取って昌平坂と呼ばれました。

そして、羅山の孫信篤が大学頭となり朱子学は正式に幕府の学問となりました。
林家の子孫は代々幕府に仕えて学問の仕事を受け持ち朱子学は、いよいよ盛んになりました。

陽明学と中江藤樹とは?

朱子学とともに儒学の一派である陽明学もおこってきました。
陽明学は心の誠を明らかにしようとする学問で特に実行をたっとびました。

「近江聖人」と言われた中江藤樹は孝行などの道徳を自分守り行なって人々から、厚く敬われました。
藤樹の弟子、熊沢蕃山は岡山藩主池田光政に仕えて藩の政治や経済を、立派にすることに勤めました。

貝原益軒と本草学とは?

陽明学と朱子学を学んだ貝原益軒も江戸時代初め頃の、優れた学者の1人です。
幕府にも藩にも仕えず全国を歩いて薬草や産物をよく調べ「大和本草」などの本をあらわしました。

また儒教の教えを民衆にもよくわかるように優しく書いた本も出しました。

徳川光岡と大日本史この頃の大名には、儒学を学び、その教えを政治に現そうと努めた人がかなりいました。

御三家のうち水戸藩主徳川光圀もそのひとりでした。
光圀は「水戸黄門漫遊記」で知られていますが、これはもちろん、作り話です。

しかし藩の政治に、いろいろ新しい改革をやった優れた大名であったことは、本当です。
光圀の仕事の中で、一番大きなものは「大日本史」の編集を始めたことです。

そのために江戸に彰考館という史局をおき、ほうぼうから、立派な学者を呼び、いろいろな記録を集めました。

「大日本史」は明治時代になってからようやく完成されましたが、その編集方針は、皇室をたっとび幕府を敬う精神に基づいています。

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