今回は江戸時代で強まる町人の力と商業の発達について、日本の歴史を紹介します。
城下町と商人
日本人の、95パーセントほどが農業に携わり、あとの5パーセントほどが農民の作ったものを、税に取り上げて生活しているような状態では商業はあまり盛んになりません。
ところが、安土・桃山時代から江戸時代になると武士たちは、ほとんど城下町に住むようになって農業には関係しなくなりました。
給料は米で貰っても米だけでは生きていけませんから余分な米を売って着物や家具を買います。
従って米を買いとる人や着物を売る人や家具を作る人が必要となります。
そこで、城下町には商人や道具などを作る職人が集まってきました。
その他、荷物運びをする人や土方なども集まってきました。
江戸では、100万人の人口の内半分が武士やその家族と奉公人半分が商工業者でした。
商人や職人たちは多く地方から出たものでした。
農村のニ、三男では生活できないというので将軍のいる江戸へ出たり大坂や京都、近くの城下町へ出て行きました。
こうして、江戸や大坂には多くの人が集まってきました。
彼らは、口入屋(奉公先を心駿せわするところ)へ行って奉公口を探します。
武家の中間(召し使い)や草履とり(武家の主人に仕えその履物を持ってお供をした下男)になる者もあり商店へ奉公にいく者もありました。
でっちから番頭へ
商店へ入って、人前の商人になるには、でっち奉公から初めなければなりません。
10才前後で住み込み、主人のお供から子守や掃除などをして、その内使いぱしりなどをします。
15、6才になると半元服と言って、額を四角に剃り名前も変えて、長松だの丑吉だのと言うようになります。
17、8才になると本式の元服をして手代になります。
手代になれば一人前の奉公人ですが手代の内、一番上に立つ人を番頭といいます。
番頭になってから何年か勤めると主人が資本を出して新しく店を開くことを許してくれます。
主人が三河屋ならやはり三河屋という屋号をつけるので番頭が新しく店を開くことを暖簾をわけてもらうといいます。
これで一人前の商人になるわけですが、ここまで来るうちに、途中で止めてしまう人も少なくありませんでした。
番頭たちは店を持ってからも主人の家に何かあればすぐに駆けつけて働きました。
職人になるにも、子どもの頃から奉公して長い間掛かって主人から技術を教えてもらいました。
今のように学校で教育する時代ではなかったので職業教育は親方のところで教えてもらうよりほかなかったのです。
差配人と借家人
一人前の商人や職人になっても、みんなが自分の家を持っていたわけではありません。
たくさんの土地や家屋を持っている地主もあれば借家をしている人もありました。
都市では半分以上、多いところでは80パーセントもの人が借家に住んでいました。
借家をたくさん持っている人は差配人(家守)をおいて家賃の取立てなどをさせました。
差配人を大家さんと呼び借家人を店子と呼びました。
町人は広い意味では都市に住む商工業者を指しますが厳密には、家屋敷を持つもの(家持)に限り町人と呼ばれ、税耐を納め名主(町役人)などを選挙する権利がありました。
借家人はその権利がない代わりに税金も納めませんでした。
税金は土地へかけられるので、その間口の広ろさに応じて納めました。
落語に出てくる八っつあんや熊さんが家賃をまけてくれと大家さんに言いますが税金のことを少しも言わないのは借家人には税金がかからないからです。
地主や差配人は税のほかにも、消防、形祭礼などの費用や名主の給料などを出しました。