今回は小売屋と問屋とは? 金座・銀座について、日本の歴史を紹介します。
小売屋と問屋とは?
商店には、店へ買いにくるお客に品物を売る小売屋と小売屋へ品物を卸す問屋とがあります。
問屋には、大坂の方から船で運んできた荷物を扱うものもあれば江戸の周りの土地から運んできた品物を扱うものもありました。
これらの問屋は、仲間同士で組合をつくっていました。
この組合は株仲間と呼ばれました。
風問屋・茶問屋・紙問屋・木綿問屋などさまざまな問屋の組合がありました。
栄える大商人
小売商は問屋から品物を卸して貰って売るのですから問屋より小さいわけですが中には大きな商人もいました。
越後屋という呉服店は三井家で経営していました。
越後屋ではあらゆる種類の呉服が用意されお客さんの注文に応じて一尺(一尺は30.3センチ) でも二尺でも切って売ってくれました。
また、この頃は品物を売っても帳面へつけておいて盆と暮れ(大晦日)の二度にお金を受け取るのが普通でした。
それから品物には正札(正しい値段を書いた札)が付けてなく実際より高い値段を言った上で幾らか儲けて売るのが普通でした。
ところが越後屋では全て現金で売ることにし正しい値段で売るようになりました。
このため、越後屋は信用を増し、たいへん繁盛しました。
大丸や松坂屋も古くから続いている呉服店です。
商人の中には仕事が上手くいってたいへんお金を儲けた人もありました。
儲けたお金を人に貸して利子を取り、さらにお金を儲けた人もあります。
また畑を開墾してそれを売って儲けた人もあれば、その田畑を小作人に造らせ小作料をとって、お金を蓄えた人もいました。
三井家では江戸・京都・大坂で呉服店を開き金貸しを行い、新田も開くというように、ますますお金を儲け天下の大富豪となりました。
貨幣とは?
徳川氏は、1601年(慶長六年)貨幣制度を整え慶長金銀を発行しました。
その後商業の発達に伴って元禄の頃になると貨幣は全国に行き渡るようになりました。
江戸時代の貨幣は金貨・銀貨・銅貨の三種類ありました。
金貨は大判が10両、小判が1両でした。
初めの頃の金貨は質がよいもので小判には金が84パーセント入っていて、あとは銀でした。
一両には金が約15グラム含まれていたわけです。
今の金の値段は1グラム約4000円ですから一両は約6万円になります。
もっとも、後になるとだんだん金を少なくして銀を多くするようになりました。
金座と銀座とは?
金貨や銀貨を発行したのは幕府ですが、それを造ったのは金座、銀座という商人の組合でした。
家康は後藤光次という者に小判一分判を造らせました。
その後、後藤氏は慶長金銀が定められると貨幣を造る仕事の長となり造る所は金座と呼ばれるようになりました。
金座のあった位置は今の日本銀行のところです。
銀座は、はじめ伏見についで駿河に設けられましたが後に、伏見の銀座は京都に、また駿河の銀座は江戸に移されました。
今の東京の銀座は、これが地名として残っているものです。
蔵屋敷とは?
大名は、年貢として取立てた米などを大坂へ送り、それを売り払ってお金に換えました。
また大名たちは大坂に蔵屋敷という邸宅をおき、そこの蔵へ米を閉まっておいて必要に応じて売ったのです。
はじめは武士が直接売り捌いていましたが後には商人に頼むようになりました。
そういう商人を蔵元といいました。
蔵元になるような商人はお金をたくさん持っている大商人でしたから大名は、お金に困ると、それらの商人から借金をしました。
そこで、後には武士も大商人には頭があがらないようになりました。
蔵屋敷の蔵米は入札で高い値段の者に売り渡されました。
それを買った仲買商人は大坂の堂島の市場で売買しました。
その頃、大坂は「天下の台所」といわれ大名の蔵米のほか全国から米やその他の産物が集められました。
堂島の米市場は全国一の大きなもので、そこの米の値段は全国の米の値段に影響を与えました。