今回は江戸時代の江戸と大坂のにぎわいについて、日本の歴史を紹介します。

江戸のにぎわい

将軍のお膝元と言われた江戸には300人近い大名や二万人以上の旗本御家人の屋敷をはじめ商人・職人の住まい、神社・寺院など様々な建物が建ち並んでいました。

700年頃の江戸の人口は100万にも達し世界一の大都市になりました。
大きな大名は、屋敷を3つも4つももり何百人、何千人という家来や召し使いをおいていました。

いま東京大学のあるところは金沢の前田家の屋敷跡です。
また東京の後楽園は水戸家の屋敷跡で、もとの庭園の一部が残っています。

大名たちは毎月1日、15日、28日に城へあがって将軍に挨拶するほか正月や五節句にも将軍にお祝いを述べるために城へあがりました。

大名でも旗本でもその身分や資格によって行列も違い、江戸城内の部屋も違いました。

日本橋とは?

江戸の日本橋は多くの大商人が集まっているところで川岸には問屋の倉庫が建ち並び諸国から運んできた品物は船から直ぐに倉庫へ入れました。

全国へ通じる道路の初めも日本橋でここには荷物の輸送や飛脚のことを取り扱う伝馬所がありました。
日本橋を渡る人は朝から晩まで絶えるときがなく毎日お祭りのような騒ぎでした。

こんな賑やかな町になると商売がうまくあたれば非常な利益をあげることができます。
越後屋が1日に150両こずつの商いをしたのもその例です。

また河村瑞賢という人は明暦の大火のときに木曽(長野県)の材木を買いしめて大儲けをし江戸で一番の金持ちになりました。

瑞賢は、東まわり・西まわりの航路を開いた人で後に旗本に取立てられました。

道頓堀とは?

大坂は豊臣氏が滅んだあと家康の孫にあたる松平忠明が城主になりました。
忠明は、大坂へ伏見の町人を移り住ませたりして町が栄えるように努力しました。

まもなく忠明は大和(奈良県)の離山に移され大坂は幕府の直轄地(幕府が直接支配する土地)になりました。

大坂城には、城代として大名がいたほか多くの名や旗本が警備にあたっていました。
町のことは大坂町奉行が支配するのは江戸と同じでした。

大坂は、八百人橋といわれるほど、たくさんの運河が通じ、橋がありました。
東横堀川と西横堀川の間は船場といって街の中心地でした。

東横堀川と西横堀川とを繋ぎ木津川へ通じるのが道頓堀です。
これは、安井道頓がはったりでこの名が付けられたのです。

大坂の人口は、1700年ごろ拘35万1750年ごろ40万ぐらいだったようです。

大坂では、町なみが東西または南北にはしる坦路や運河で区切られていて江安戸よりはきちんとしていました。

道には幅の広いところで6メートルから9メートルくらいでした。

大坂の交通

運輸機関としては水上はもちろん船でしたが陸上では、べか車というものが使われました。

車が盛んに使われるようになると今まで馬や船航で運んでいた荷物を車のほうにとられてしまうので馬方や船頭が車の使用に反対しました。

そこで町奉行はべか車が荷物を積んで僑を渡ることや遠くへ荷を運ぶことを禁じました。
江戸でも、大八車が盛んに使われるようになって馬方たちが反対するという出き事がおこりました。



関連記事