今回は天下の台所とは? 近江商人と富山の薬売りについて、日本の歴史を紹介します。
天下の台所とは?
大坂は「天下の台所」と言われただけあって全国の物産が集まり、たいへんなにぎわいでした。
17世紀末に、井原西鶴が大坂の町について次のように書いています。
「淀川に掛かっている難波橋の上に立って西の方を眺めると中之島の蔵屋敷や日本一の港である北沢の米が見え数千件の問屋が軒を並べていて白壁が夜明けの雪のようである。
三角形に積み上げた米は山が動くようで多くの荷馬車につけて運ぶと道は地雷のように轟く。
はしけや川船がたくさん波の上に浮かんでいるのは秋の柳の枯れ葉のようだ。
家ごとの暖簾は風に翻って、繁盛の様子を示している」大坂に集まった品物は問屋の手から船に積まれて江戸へ贈られる物もあれば馬のせや、車で諸国へ運ばれる物もありました。
近江商人とは?
職人や農家で作られた織物・紙・陶器・道具などはたいてい、仲買人が買い集めて問屋へ送り問屋から小売商人におろし、それを店でお客に売りました。
商人の中には品物を担いで家々を回って売る行商人もいました。
彼らは、品物を天秤棒で担ぐので榛手振りとも言いました。
江戸や大坂などの大都会にはこうしたいろいろな物売りがいて商いをしていました。
これらの行商人の中で特に有名なのが近江商人です。
近江(滋賀県)の商人は早くから遠い地方にまで行商に出かけていましたが江戸時代になると北海道にまでも行きほとんど全国に渡って活躍しました。
近江には、日野の塗り物や薬、八幡や長浜のカヤ・畳表、高宮・野州の麻布などたくさんの特産物がありました。
行商人は、それらの品を天秤棒で担いで関東や九州へ出かけて行き品物を売り尽くすと、その地方の品物を仕入れ、それを売りながら帰ってくるのでした。
近江商人は他の商人よりも辛抱強く倹約するために野宿をすることもありました。
そのため、近江商人の中にはたくさんのお金を蓄える人が出てきました。
日野町の中井源左衛門もそのひとりで19才のときから行商をはじめ苦労を重ねた後、大金持ちになりました。
お金が貯まると近江商人は、あちこちに出店を出しました。
今で言えば定吉のことです。
出店には、支配人をおいて商売させ主人は各地の出店を回って歩くので自分の家にいるのは、わずかの日数でした。
また、「近江の千両天秤」と言われるように近江商人は千両貯まっても行商を辞めないのが普通でした。
出店ができても今まで通り行商したり出店を根拠地にして、その周りを行商して歩いたりしました。
富山の薬売りとは?
近江商人と似ているのに富山の薬売りがあります。
これは江戸時代に始まったのですがやはり全国的に行商が行われました。
その売り方は薬をおいていき一年後に、使った分の代金を取りに来てまた新しい薬をおいていくという方法で農村などでは便利なので全国に広まりました。
富山藩主の前田家もこの商売を保護したので薬は富山第一の産物となりました。
富山の薬売りは今でも同じ売り方が行われています。