今回は江戸時代の手工業と鉱業について、日本の歴史を紹介します。
大名と産業
大名は、自分の領地内の産物が多くなるように勤めました。
米などの農産物のほか紙・ロウソク・唐傘・塗り物・焼き物などを作るよう進めたり養蚕を盛んにしたりしました。
そのころは、工業といっても家族、が家の中で簡単な道具を使ってやるものが大部分でした。
大名は、農民や職人に作らせるほか家来の家族にも作らせました。
米沢藩主の上杉鷹山は養蚕業を盛んにするとともに家来の妻たちに、織ることを習わせました。
それが、米沢織として知られるようになりました。
忍(埼玉県行田市)の藩主阿部正喬も家来の家族に足袋を作らせて生活の足しにさせましたが、それがだんだん盛んとなって後には、行田の足袋として知られるようになりました。
手工業の発達
手工業の中には酒や醤油のように大掛かりなものもありました。
酒は全国で造られましたが特に、池田(大阪府)・伊丹(兵庫県)灘(兵庫県)などは有名でした。
酒をつくるには米を洗う人、ご飯を炊く人、麹を作る人などと何十人もの人がそれぞれの持ち場で働いていました。
酒は冬につくられたので、そのころ暇な農民や漁民が集まってきて働きました。
出来た酒は、樽に入れられ船で江戸へ送られました。
酒樽を積んだ船は一番に江戸に着くことを競争したものでした。
醤油は、京都、紀州の湯浅(和歌山県)、下総(千葉県)の銚子・野田、讃岐(香川県)の小豆島などで多くつくられました。
醤油も酒と同じように、たくさんの人たちが工場のようなところで働いていました。
京都では西陣織のような上等な絹織物もつくられ扇などの美しい物が多くつくられました。
これらの手工業もだんだん工場式のものに発達していきました。
鉱業
鉱山から金銀が盛んに掘られるようになったのは戦国時代の終わりからでした。
そして、江戸時代のはじめには、その産額は頂点に達しましたが、その後しだいに衰え代わって銅鉱業が盛んになりました。
佐渡(新潟県の一部)の鉱山からは毎年たくさんの金銀がでました。
そのほか伊豆(静岡県の一部)の金銀も、それに劣らないと言われ生野(兵庫県)・石見(島根;山足尾(栃木県)、別子(愛媛県) の銅山なども盛んになりました。
主な鉱山は幕府の領地にして、そこから出た、金・銀・銅で大判や小判などの貨幣をつくりました。
ことに銀の産出もたいへんなもので、17世紀はじめには世界の産額の三分の一を占めたほどでヨーロッパの貿易船は日本の銀を買うためにやってきました。
各地の名産
都市が発達し品物を売って生活する人が多くなり、また、交通が便利になって品物が楽に運べるようになると各地で珍しい物をつくって売りだすようになりました。
薩摩藩では、大島や喜界島などで砂糖をつくり、高知藩ではカツオを干した鰹節をつくりました。
越後(新潟県の一部)ではカラムシ(麻の一種)を織ってちぢみをつくり小千谷などの市場で売りました。
桐生(群馬県)では京都の西陣織の技術を取り入れて絹織物をつくりました。
そのほか、足利(栃木県)・伊勢崎(群馬県)、八王子(東京都)・青梅(東京都)、上田(長野県)なども絹織物の産地として知られました。
また九州の博多は絹織物の、どんすや帯地で有名になりました。
近くの小倉は、木綿織物をつくり袴などになると、しっかりした丈夫なものを出しました。
また、紀州のミカンも甲州(山梨県)のブドウなど果物の名産もでました。
広島県付近のカキの養殖も、このころから、盛んに行われ江戸や大坂などへ送られて食前を賑わせました。