今回は栄える江戸の文化 化政文化について、日本の歴史を紹介します。


18世紀の終わり頃から19世紀の初めにかけて文化の中心は上方(京都・大阪地方)から江戸へ移りました。
この中心になった文化・文政年間(1804年から1829年)の年号をとって、化政文化といわれます。

この文化は、さきの上方を中心とした天禄文化に比べて、活き活きとした明るさや、華やかさが見られなくなりその日だけの楽しみを求めたり、こった好みや皮肉などが喜ばれました。

小説

この時代の文学では、やはり小説が中心で黄表紙・合巻・読本・酒落本・滑稽本などが盛んに呼ばれました。

黄表紙

表紙が黄色いのでこの名があります。
挿絵がたくさんのっていて当時の人々の遊びや風俗を描き、それらを風刺しています。

山東京伝の「江戸生艶気樺焼」などが代表作でした。

合巻

これも挿絵を主としたもので何巻かを閉じて一冊の本にしたので、こう呼ばれました。

合巻は滝沢馬琴・柳亭種彦など多くの作家が書きましたが種彦の「修紫田舎源氏」は特に評判が良かったようです。

読本

「南総里見八犬伝」の作者として有名な滝沢馬琴は読本の代表作家です。
読本は、絵より本文が主になっていて声をあげて読むのに相応しい文章で書かれています。

「八犬伝」は27年も掛かって書かれた作品で武勇あり、冒険ありの変化に飛んだ読み物です。
読本の作者としてはほかに山東京伝が挙げられます。

滑稽本

庶民の生活や風俗を笑いや滑稽を主にして描いたのが滑稽本です。

弥次郎兵衛・喜多八のふたりの滑稽な道中を面白く書いた「東海道中膝栗毛」は、滑稽本の最初の作品で、作者十返舎一九の名を高くしたものです。

また式亭三馬も滑稽本の作者として有名で特に風呂屋・床屋・劇場な舞台にして江戸の人々の日常生活を描きました。

「浮世床」「浮世風呂」などの作品があります。

俳諧

芭蕉が死んでから60年ほど経った宝暦の頃(18世紀中頃)与謝蕪村がでて、絵画的な表現にとんだ優れた句を残しました。

蕪村はまた、画家としても優れ中国の南画(文人画)を研究して新しい様式を作り出しました。
その後、文化・文政の頃になると俳諧は全国に広まり、ほうぼうの町や村に作者がいて社とか連中とか言うまとまりを持つようになりました。

その中で、信州(長野県)柏原から出た小林一茶は、優れた句を残しました。
一茶は家が貧しかったので15才のとき江戸へ奉公にでました。

後に俳諧の道に入り、諸国を歩き晩年になって故郷へ帰りました。
一茶の句は・思い付きがかわっており言葉遣いも、滑稽に溢れていました。

また、鳥や獣や虫などに深く同情したものが多くみられます。

狂歌と川柳

狂歌や川柳も江戸で盛んになりました。
狂歌は和歌の形で世の中をあてこすり、滑稽と皮肉で笑い飛ばそうとしたものです。

蜀山人(大田南畝)は狂歌の作者として有名です。
川柳は、形は俳句と同じですがこれも滑稽なあてこずりを狙ったものでした。

柄井川柳がその作者・選者としてとくに優れていました。

寺子屋

町人文化が栄えたのは印刷の発達により書物が割合手に入りやすくなったこと
寺子屋がたくさん出来て町人階級にも教育が次第に普及したことなども大きく原因しています。

寺子屋は、農民や町人の子どもたちが勉強をするところです。
先生には、浪人・神官・僧などや名主(庄屋)などの村役人がなりました。

子どもたちは、「論語」を読んでは、そらで覚えたり、手習い(習字) や、そろばんを習ったりしました。

このような寺子屋は1722年(享保7年)ごろには江戸だけで約800あったと言われ、そののち時代が経つとともに急速に広まりました。

こうして、文化は、もう貴族や武士だけのものではなく広く民衆の間に行き渡っていったのです。



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