今回は諸藩の改革について、日本の歴史を紹介します。
水野忠邦とは?
大塩干八郎の乱のすぐあと家斉は将軍職を、子の家慶に譲りましたが
隠居してからも、政治の実権を握っていました。
1841年(天保21年) 家斉が亡くなり老中の水野忠邦が、腕をふるう時がきました。
忠邦も、吉宗や定信のやり方を真似て、いろいろな改革を行いました。
彼は無駄なお金を出さないように幕府の財政を引き締める一方、江戸市民にも贅沢なことをさせないように厳しく取り締まりました。
ところが、そのころには江戸の市民もかなり贅沢になってましたから忠邦の取り締まりを、窮屈に思いました。
思邦は、芝居小屋が市中に、あるのはよくないといって浅草の町はずれに移しました。
また、役者を下の階級のものとして外を歩くときには、編笠を被らせました。
役者を下の階級の者として扱うことは前からあったことで明治維新のあとまで続いていましたが忠邦はとくに差別あつかいをしました。
七代目の市川団十郎は贅沢な生活をしていたというので追放の罰を受けました。
着物でも、履物でも贅沢な品は一切売ることを止められたので、そのころの大きな呉服店の越後屋(今の三越)・大丸屋・白木屋などでは、売り上げが非常に減ってしまいました。
人返しとは?
忠邦は、農村の人が江戸や大阪などへ集まってくるので田畑が荒れてしまうのだと考えました。
そこで農民が農業を捨てて江戸などの大都市へ集まることを禁じたり江戸へ出てきた人を農村へ返したりしました。
この決まりを、「人返し令」と言い1843年(天保一四年) に出されました。
忠邦の改革は、あまりに厳しかったので彼の評判は、だんだん悪くなりました。
ついには、大名や旗本までが反対したので忠邦はとうとう老中を辞めなければならなくなりました。
諸藩の改革とは?
幕府は、享保・寛政・天保と三度にわたって改革を行いました。
大名たちも、幕府と同じように財政が苦しくなって、いろいろな改革をやりました。
大名の中でも、77万石という薩摩(鹿児島県の一部)の島津氏は借金でやりくりしていましたが大坂・京都などの商人から借りた分だけでも500万両にも昇りました。
島津氏は、こんな大きな借金を返すことができないので500万両を、250年間に2万両ずつ返すことにしました。
500万両というと利子だけでも一年に50万両くらい払わなければならないのに、わずか2万両ずつまでですから、ただにしてしまったようなものです。
商人たちは、たいへん憤慨しましたが大名を潰すわけにはいかないので、そのまま、泣き寝入りしてしまいました。
このようなやり方は、どこの藩でも行い衰えた藩の財政を立て直すのに役立てました。
藩の商売
また、各藩は収入を増やすために今まで農民や商人の手で行われていた商品の生産・販売を藩の手で行うようにしました。
薩摩藩では大島・徳之島・喜界島の三島に強制的にサトウキビを植えさせて、できた砂糖を全部買い入れ大坂に送って売り払いました。
当時、砂糖の大部分は、この藩でつくられたので薩摩藩は大きな利益を得たわけです。
そのため、のちは薩摩藩は余裕ができて大砲を作ったりガス燈をつけたりして新しい文化を取り入れました。
そのほか、佐賀(佐賀県)の鍋島氏、萩(山口県)の毛利氏、土佐(高知県)の山内氏などでもいろいろな改革を行なって、かなり、藩の財政を立て直すことに成功しました。
これらの藩がのちに幕府を倒す力を、持つようになったのです。