今回は江戸時代の国学と洋学について、日本の歴史を紹介します。

国学とは?

江戸時代のはじめ、学問といえば主に中国から伝わった儒学のことでした。
漢文を学んで中国の歴史や文章を研究していたのでした。

ところが、一七世紀の半ば過ぎから日本の歴史や文学を研究する学問が盛んになってきました。

それを国学といいます。

契沖という僧は江戸時代前期の人ですが「万葉集」の研究をして「万葉代匠記」という本を出しました。
一八世紀になると荷田春満賀茂真淵などの学者があらわれて多いに国学を学び、広めました。

伏見稲荷神社の神主であった荷田春満は古典の研究につとめ国学を研究する学校をつくるように幕府に意見書を出しました。

春満の弟子の賀茂真淵も浜松の神主の家に生まれた人で「万葉集」や「古事記」の研究に励みました。
真淵の弟子、本居宣長も優れた学者です。

宣長は伊勢松坂(三重県)の木綿問屋に生まれましたが京都へ行って医学を学び町へ帰ってから医者となりました。

その傍ら、「源氏物語」や「古今集」の研究をしていましたが真淵が松坂へ来たときその門人になって「古事記」の研究をはじめました。

宣長は35才から、69才まで35年掛かって、「古事記伝」という本を表しました。
その他にも、多くの本を書いています。

その他、国学者には平田篤胤・塙保己一などがでました。
塙保己一は、盲でしたが立派な仕事をしています。

保己一が編集した「群書類従」はその後の日本の学問の発達に大きな役目を果たしました。

国学者たちは「日本の古い頃は、非常に優れた国で人の心も素直で正直であったのが儒教や仏教が入ってきてから悪い心がおきてきた」と言いました。

また「天皇が政治をとっていた時代が最もよく治まっていた」とも考えました。

国学者たちのこうした考えは次第に強くなり、後には将軍の代わりに天皇を政治の中心にしようとする考えになってきました。

西洋の学問とは?

日本が鎖国をしている間に西洋の学問は非常に進んでいましたが
日本ではその様子がわかりませんでした。

その頃は長崎のオランダ商館にきた人たちがヨーロッパの様子を伝えるだけだったので新しい学問をしたい人は長崎まで出かけていきオランダの本を手に入れて勉強しました。

一八世紀の半ばごろ豊前(犬気県) の中津藩主奥平家の医者に前野良沢という人がいました。
また、若狭(福井県)小浜藩主の酒井家に仕える杉田玄白という学者がいました。

2人とも、江戸にいて知り合いでしたがあるとき2人は、「ターヘル=アナトミア」というオランダの医学の本を手に入れました。

それに書いてある人体の図を見るとこれまで漢方(中国から伝わった医術)の医学で学んでいた人体の仕組みとは非常に違っていました。

はじめは、ヨーロッパ人と東洋人とは違っているのかと思いました。
そこで、千住の刑場へいって死刑になった人の解剖を見ました。

それと「ターヘル=アナトミア」の図を比べるとぴったりあってました。
漢方で学んだ人体の仕組みは間違っていたわけです。

ヨーロッパ人は、すべて実験をして試してみる習わしだったので解剖をして人体をよく調べていたのでした。

東洋では、頭の中で考えるだけで実験をしてなかったので間違っていたわけです。



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