今回は解体新書とは? シーボルトについて、日本の歴史を紹介します。
解体新書とは?
前野良沢も杉田玄白も殿様の医者ですから人間の体をよく知らないで主君を診察していたのでは申し訳ないと思いました。
また、こういう人体のことがよくわかると大勢の人の役に立つと考えました。
そこで、ふたりは中川淳庵という小浜藩の医者と、「ターへル=アナトミア」を翻訳することにしました。
三人の中では前野良沢がアルファベットを知っているくらいで、杉田玄白も淳庵もオランダ語を知りませんでした。
しかし、彼らはオランダ人や通訳の助けを借り、あるいは度々、人体や動物の解剖を行なって、これを手引きとしながら、四年掛かって翻訳しました。
この本は「解体新書」と名付けられました。
四洋の学問は、はじめオランダ(阿蘭陀) から伝わったので、蘭学と呼ばれました。
その内、イギリスやフランスの学問も入ってくるようになり、それらをひっくるめて洋学といいます。
洋学を学んだ人々
玄白の弟子には一ノ関(岩手県)の浜の医者で大槻玄択という人がいました。
彼は、江戸で塾を開いて多くの門人を育てました。
その塾では、太陽暦の正月二目に元旦のお祝いをしました。
そのころは、みな盆でも正月でも旧暦で行なっていたので玄沢の塾の正月はオランダ正月といって珍しがられ44回も続けて閉かれました。
玄白・良沢が死んだあと洋学は玄沢一家を中心として江戸から全国に広がりました。
そして、内容も、医学をはじめ動植物学・物理化学・天文学などが次々に、開拓されていきました。
前野良沢の門人の司馬江漢は西洋画を描くとともに世界地理や天文学の書物を表しました。
平賀源内も西洋画を描きましたが彼は非常に器用な人でエレキテルという発電機や寒暖計をつくりました。
また、小説を書いたり狂歌をつくったりして、活躍しました。
長崎のオランダ人
オランダ商館に来ている人の中にも学者がいました。
ことに医者としてきた人には優れた人がいました。
彼らは、日本の歴史・動植物・地理・風俗・言語などを研究して帰国してから書物を表したものも少なくありません。
一七世紀の末にドイツの医者ケンペルがやってきました。
彼は長崎に三年いる間に日本の歴史や地理などを調べました。
そして、帰ってから「日本誌」を書いてヨーロッパに日本のことを知らせました。
この本は東洋に対する関心が高まりつりあったヨーロッパで広く知られるようになり英語版・ドイツ語版・オランダ語版・フランス語版も出されました。
ツンベルグという医師が来ました。
彼は世界的な植物学者で中川淳庵らの日本の学者にいろいろな知識を授けました。
彼の書いた「日本植物誌」「日本動物誌」などは日本の学者の研究に多いに役立ちました。
シーボルトとは?
1823年(文政6年) ドイツの医者シーボルトがきました。
これまで、オランダ商館の人たちは出島から出ることができませんでしたがシーボルトを特別に長崎の郊外の鳴滝というところに別荘をつくることを許されました。
彼は、日を決めてそこに通い、そこで病人を診察したり門人に洋学を教たりしました。
シーボルトは日本人のおたきという人を妻にして、おいねという子をもうけました。
日本全国から多くの学者がシーボルトの教えを受けにきました。
その中には、高野長英もいました。
シーボルトは日本の自然・風土・歴史・風俗・社会など、あらゆる方面にわたって研究しました。
そして、帰国後日本についての論文や書物を、数多く発表しました。
中でも、「日本」という書物は特に有名で西洋人が日本について書いた本のうちで最も優れたものでした。
なお、おいねは、後に女医となりました。