今回は光太夫とは?
ロシア使節ラックスマンの来航について、日本の歴史を紹介します。
東洋にせまる国々
日本が鎖国をしたころはヨーロッパの国々が東洋へ乗り出そうとしているときでした。
その中で、オランダはスマトラやジャワを植民地にもました。
また、イギリスとフランスはインドに植民地を作ろうとして争い、ついにイギリスが勝ち、インドをだんだん自分の国の領土にしてしまいました。
やがて、イギリスは清(中国)にも手を伸ばそうとし1840年戦争をしかけました。
これがアヘン戦争です。
この戦いで、イギリスはから香港を領土にしてしまいました。
フランスは、カンボジアやトンキン(北ベトナム)の方面に力を伸ばしてきました。
しかし、イギリスが一番広い植民地を手に入れてアジア・アフリカ・アメリカなどいたるところに大きな領土を作りました。
イギリスより少し遅れてロシアがアジアに進出してきました。
ロシアは東に進みオホーツク海にたっしカムチャッカ半島に入りさらに北太平洋の探検をしました。
ベーリング大佐がアジアとアメリカは地続きではないことを発見しべーリング海峡と名付けました。
光太夫とは?
伊勢(三重県の一部)の白子という港に光太夫という船の乗りがいました。
1783年(天明三年)、彼が船で江戸へ向かう途中大嵐に会い、仲間とともに太平洋を8ヶ月も漂流しました。
彼らはアリューシャンの島に流れつきましたがそこにいたロシア人が光太夫らを首府のべテルスブルグへおくりました。
彼らは、大事にされ珍しい品物を貰いました。
けれども、彼らはなかなか返して貰えませんでした。
ロシアは、彼らを日本へ送り返しそのときに日本と貿易をする交渉を行うと考えました。
ロシア使節ラックスマンの来航
1792年(寛政四年)ロシアの使節ラックスマンは光太夫たちをつれて北海道の根室に来ました。
そして、当時の北海道の大名松前氏にロシア皇帝の手紙を差し出しました。
松前氏は、その手紙を幕府へ出しましたがそのときの老中松平定信は、もし通商をのぞむなら長崎へ回ってもらいたい、そのために長崎入港の許可書を与えようと、返事をしました。
ラックスマンは、そのまま帰りましたが定信は日本の防衛が不十分だと考えて東京湾に防備施設をつくったり北海道を幕府で治める計画を立てたりしました。
林子平とは
そのころ、仙台の人で林子平という人がいました。
彼は、蘭学を学び外国の様子を知るにつけても幕府のやり方を不安に思いました。
そこで、「三国通覧図説」や「海国兵談」を書いて海外に関する知識を人々に知らせたり日本沿岸の全国的防備が必要であることを解いたりしました。
ところが、当時は役人でない人が政治のことをとやかく言ってはならないということになっていたので定信は子平を罰して、その本を取り上げてしまいました。
ラックスマンが来たのはそのすぐ後のことです。