今回は伊能忠敬と間宮林蔵とは?
フェートン号事件について、日本の歴史を紹介します。

伊能忠敬と間宮林蔵とは?

ラックスマンが帰ったあと幕府は、北海道方面をよく調べておかなくてはならないことを知りました。
そこで、1798年(寛政10年)近藤重蔵という役人がエトロフを探検に行きそこに、「大日本恵登呂府」という柱を立てました。

また、伊能忠敬という地理学者も1800年(寛政21年)幕府の命令を受けてエゾ地(北海道)を測量し地図をつくりました。

以後1812年(文化九年)までかかって全国の沿岸を測量し日本全国の地図をつくりあげました。
この地図は、当時のものとしては非常に正確なものです。

また、間宮林蔵も探検家として有名です。

常陸(茨城県)の農民の出身ですが測量が好きで、やがて幕府の下級役人に取立てられました。
彼は樺太からシベリア大陸の方面まで探検しました。

林蔵によってそれまでヨーロッパの航海家からも謎とされていた樺太と大陸間の海峡が発見されこれは、彼の名をとって間宮海峡と名付けられました。

その他、アイヌ語を自由に話しエゾ地開発に力のあった最上徳内も有名です。

レザノフとは?

ラックスマンが来てから13年目の1804年(文化元年)ロシアの使いレザノフがやってきました。
レザノフは、長崎へ言って交渉すれば貿易が出来るようになると考えてやって来たのです。

ところが、長崎で半年ほど待たされたあげく幕府からオランダ以外の国とは貿易なしないという返事を受け取りました。

レザノフは、たいへん怒って長崎を引き上げました。

フェートン号事件とは?

1808年(文化5年)、オランダの国旗をあげた船が長崎の港に入ってきました。
オランダ船だと言うので長崎奉行所の役人とオランダ人2名とが船に乗って、その船に近づきました。

船からもボートを降ろして近づいてきましたがいきなり奉行所の船に襲いかかってオランダ人2名を
つれていってしまいました。

帰ってきた奉行所の船の知らせで長崎中は大騒ぎになりました。
その船は、実はイギリスのフェートン号という軍艦だったのです。

その頃、フランスはナポレオンの時代でオランダ本国は、ナポレオンに征服されていました。
そこで、フランスと戦ってオランダの植民地に目をつけそこを占領してしまいました。

このため、世界中でオランダ国旗をかかげているのは長崎のオランダ商館だけになりました。
フェートン号は長崎にオランダ船がいたら捕らえようとしてやってきたのでした。

日本側は、イギリスの乱暴を怒りましたが警備力が弱いのでどうすることも出来ませんでした。

その内に、フェートン号もオランダ船がいないことがわかったので捕らえたオランダ人を離して出港していきました。

長崎奉行の松平康英は責任を感じて自殺しました。
この事件をフェートン号事件と言います。

この後、イギリスの船が度々日本の近くに来て食料や水を求めに上陸し日本人と争うことがありました。

異国船打払令とは?

そこで、幕府は外国船を日本の領土に近づけないほうが安全だと考えて1825年(文政八年)外国船が近づいてきたら遠慮なく、打ち払ってしまえという命令を出しました。

これが異国船打払令です。

しかし、たいした軍備もない日本がこのような、打ち払いを行うことはたいへん乱暴な話でした。

モリソン号事件とは?

1837年(天保八年)アメリカのモリソン号という船が三浦半島の浦賀にやってきました。
この船には漂流してアメリカやフィリピンについた日本船員が七人ほど乗っていました。

彼らは、それぞれ中国のマカオ(ポルトガル領)地方に送られてきて、そこに滞在していました。

これに目をつけた広東(中国)のアメリカ人が彼らを日本に送り返し合わせて日本との貿易を開こうと企てたのです。

ところが、打払令が出ていたので浦賀ではモリソン号に大砲を打ち掛けました。
驚いたモリソン号は今度は鹿児島付近へ行きましたがそこでも砲撃を受けました。

しかたなくモリソン号はそのままマカオに引き上げました。

通商は断ることは出来てもそのために、漂流民を受け取ることまで辞めなくてはならないことになりました。

日本側も、この事情がわかってくると異国船打払令を、このままにしておいてよいかどうか考えるようになりました。

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