今回は高野長英と渡辺崋山とは? 尊王論について、日本の歴史を紹介します。
高野長英と渡辺崋山とは?
そのころ、江戸に渡辺崋山という人がいました。
三河(愛知県)の田原藩の家老でしたが画家としても有名でまた、オランダの学問も研究していました。
崋山の友人の高野長英はシーボルトの門人でオランダの学問に詳しい人でした。
崋山や長英は、外国のことを研究している内にモリソン号のことを聞きました。
2人はたいへん驚き、また心配しました。
崋山は「慎機論」、長英は「夢物語」を表して異国船打払令を批判しました。
幕府では、そんな勝手なことを書いてはいけないと言って長英を牢屋に入れ崋山には謹慎を命じました。
崋山は、自分の殿様に迷惑がかかってはいけないと思って自殺してしまいました。
長英は、牢から逃げ出しあちらこちら逃げ回っていましたが数年後に見つかり捕らえられる前に自殺しました。
こんなことをしている内に外国のカは、だんだん日本に近づいてきました。
イギリスが清を負かして香港をとったのも、そのすぐ後です。
その知らせが伝わると幕府でもびっくりしました。
世界でいちばん大きく強いと思っていた清が負けたというのですからたいへんなことになったと思いました。
そこで、打払令は止めて外国船が水や食料が必要なときには与えることにしました。
水野忠邦が老中のときのことです。
尊王論とは?
外国の力が及んできて日本の国内の政治も上手くいかなくなり、これまでのやり方では日本の国は、どうなるだろうという心配がおきてきました。
そして、将軍に代わって天皇が中心となって新しい政治を行うべきだと考える人がでてきました。
この皇室を尊ぶ考えを尊王論と言います。
こういう考えを持つ人々が幕府を倒そうという運動をおこすようになりました。