今回は薩英戦争について、日本の歴史を紹介します。
公卿の活躍
朝廷では、志士たちと結んだ三条実美や姉小路公知などの公卿が中心となり外国人を打ち払うことに決めました。
幕府もだんだん朝廷の考えに引きずられるようになりました。
勅使が江戸に下って幕府も壌夷を承諾しなければならなくなりました。
朝廷では国中で壌夷運動をおこす計画を立てました。
この計画によって1863年(文久三年)三月将軍家茂が京都に呼ばれ天皇に攘夷を約束することになりました。
また、天皇は賀茂社や石清水八幡宮にお参りして攘夷の祈りを捧げました。
家茂は、五月に攘夷の戦いを始めようと朝廷に約束しました。
外国船打ち払い
1863年五月、長州藩は下関海峡を通る外国船に片っ端から大砲を打ち掛けました。
七月、薩摩藩とイギリスの間にも戦争がおこりました。
これは、八年におこった生麦事件が原因です。
薩摩の島津久光が江戸から帰ると行列を乱したとの理由でイギリス人ひとりが殺され、ふたりが傷付けられました。
これが生麦事件です。
横浜のイギリス人は多いに怒り事件の翌年、イギリス軍艦が賠償金を取るために、鹿児島へやってきました。
ところが、薩摩藩がイギリスの言うことを聞かなかったので、とうとう戦争になりました。
イギリス軍の大砲で、鹿児島の町は焼き払われてしまいました。
薩摩の武士たちも、勇ましく戦いしまいには、イギリスの軍艦は鹿児島を逃げ出しました。
しかし、この戦争のおかげで薩摩藩には外国の軍艦の強さがよくわかりました。
彼らは、外国と戦争をしてもとても勝てないのではないかと考えるようになりました。
七人の公卿
ところが、朝廷では三条実美らが相変わらず攘夷の計画を進めていました。
1863年8月13日には天皇が攘夷を祈るため大和にいくことが発表されました。
また攘夷ばかりでなく将軍家茂を殺そうとする動きもありました。
この考えは、天皇やそのそばの、考えの穏やかな公卿たちに知れました。
穏やかな考えの人たちは早速、薩摩や会津(福島県)の軍を集め実美たちの計画を壊してしまいました。
計画の中心になった実美ら七人の公卿は朝廷をおわれて、降りしきる雨の中を長州(山口県の一部)へ逃げていきました。
長州藩の武士都たちが実美らの計画を助けていたのです。
そのため、京都の御所の護りをしていた長州藩の兵士たちも京都から追い払われることになりました。
1863年8月18日のことでした。
また、天皇が大和(奈良県)にいくと発表したあくる日、公卿の中山忠光は、志士を集めて京都な抜け出し大和の五条に兵を挙げて代官所を襲いました。
これを天誅組の変といいます。
また、平野国臣らは天誅組に応じて但馬(兵庫県の一部)の生野に兵を挙げました。
これを生野の変といいます。
しかし、天皇の大和行きが中止されたので名分な失い、付近の諸藩の兵に敗れました。