今回は蛤御門の変とは? 薩長同盟について、日本の歴史を紹介します。

蛤御門の変とは?

京都を追われた長州藩は1864年(元治元年)七月になって京都を追い出された理由を聞こうと京都に進軍してきました。

薩摩や会津の軍隊が御所を護って、長州軍を迎え撃ちました。
長州軍は大きな痛手をおって逃げていきました。

これを、蛤御門の変といいます。

第一次長州征伐

幕府は、長州藩が朝廷に向かって鉄砲を打った罪をせめ1864年大名たちに命令をくだして長州藩を取り囲ませました。

幕府の軍と戦うだけでもたいへんですが長州藩はそのとき、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国の連合艦隊から総攻撃を受け、散々なめに会っていたのです。

下関海峡で長州藩から大砲をうちかけられたイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国が仇を討ちにきたのです。

これでは、とても幕府の軍と戦うことは出来ません。
長州藩は幕府に謝ることになり三人の家老が、腹を切りました。

幕府は、長州藩を謝らせたために少し元気がでてきまた。
今こそ将軍を中心にして幕府の力を強くしなければならないと考えました。

そこで、幕府は外国から軍艦や鉄砲を買ったりフランスの助けを借りて軍隊の訓練をしたり、たいへんな努力を続けました。

薩長同盟とは?

しかし、長州藩では奇兵隊という軍隊を率いた高杉晋作たちが幕府に降参した人々を、追い出しました。
そして、改めて幕府と戦おうとしました。

また薩摩藩でも、幕府はもう頼みにならないという大久保利通や西郷隆盛らが藩の実権を握るようになりました。

そして、土佐の坂本龍馬らのとりもちで薩摩は長州と密かに手を握ることになりました。

幕府が、戦いをしかけてくればお互いに助け合うこと朝廷と長州藩のとりなしをすることなどが約束されました。

第二次長州征伐

長州藩の動きを見て幕府は今度こそ長州を責め滅ぼそうと考えました。
そして、1865年(慶応元年)九月第二回の長州征伐が始まりました。

しかし、今度は前と違って反対する大名がたくさんありました。
外国との問題もうるさいとき国内で争いをするのはいけないという意見です。

おまけに大名たちにはもう長州征伐に出かけるだけのお金もありませんでした。
中でも、長州藩と同盟を結んだ薩摩藩はいちばん強く長州征伐に反対しました。

長州藩が滅ぼされた後次に滅ぼされるのは薩摩藩の番だと考えたのです。
薩摩藩の他にも長州征伐に兵を出さない藩もありました。

幕府は長州へ責めていきました。
しかし幕府軍の足なみは揃わず散々の負け戦になりました。
そのために、幕府の勢いいっそう衰えていきました。

そのうえ民衆たちもまるで幕府を困らせようとするように各地で盛んに百姓一揆をおこし都市では、打ち壊しを始めました。

1866年は、特に一揆や打ち壊しの激しい年でした。

関連記事