今回は富国強兵とは?
官営工場・軍事工場について、日本の歴史を紹介します。
富国強兵とは?
新しい国家が出来上がっても産業がこのままなら新しい国家は形ばかりのものと言えます。
また、産業の進んでいる外国と競争することは出来ません。
新しい産業
日本の産業は、ヨーロッパの国々に比べると遥かに遅れたものでした。
そこで政府は、日本の産業を多いに発展させようと考えました。
まず、昔からの織物工業をヨーロッパのように改めようとして西陣(京都)や桐生(群馬県)などから職人を選んで、フランスに政府の費用で留学させました。
職人たちは、新しい技術を学び新しい機械を持って帰ってきました。
1870年(明治三年)には小野組が東京築地に、イタリア式の製糸工場をつくりました。
小野組はまた、長野県の諏訪にも同じ工場をつくりました。
この新しい工場には毎日多くの見学者が来ました。
やがて長野県の各地に機械製糸の工場が出来て特に諏訪の地方では組合で工場をつくる人も出てきました。
官営工場とは?
政府も、自分で工場を造るようになりました。
1870年に、工部省という役所が出来工場をつくる仕事を始めました。
政府の工場は大阪・堺・前橋などに造られました。
群馬県の富岡につくられた製糸工場(富岡製糸場)は特に立派なものでした。
この工場は、機械をフランスから入れ技術者や女工の指導者までフランスから雇いました。
ここで学んだ日本の女工は全国らに散らばってその新しい技術を広めました。
このように、政府のつくった工場を官営工場と呼んでいます。
軍事工業とは?
官営工場の内でも政府がいちばん力を入れたのは軍事工場でした。
これまで、軍艦や大砲や銃はみな外国から買っていました。
朝廷方と幕府方との戦争でもどちらも外国製の武器で戦ったのです。
これでは、いざという時に外国で売ってくれなければ困ると考えた政府は幕府から受け継いだ兵器の工場や造船所などに、どんどんお金をつぎ込みました。
鉄や石炭は、軍事工業にとって欠くことのできないものです。
政府は、これらの鉱山も官営にして新しい技術を取り入れました。
こうして、明治時代の産業の中でも軍事工業がいちばん先に進歩して他の産業は、後から付いていくという格好になりました。
富国強兵、つまり産業をおこして国を富ませそれと共に軍事力を強くしていこうというのが、明治政府の重要な方針でした。
産業博覧会とは?
明治時代の産業の発展に博覧会の果たした役割にも、大きなものがありました。
1873年(明治六年)輸出の発展をはかるためウィーンの万国博覧会に生糸や茶などを出品しました。
また、職人24人をおくりましたが職人たちは、「パッタン」という新しい織物機械を持ち帰りました。
「パッタン」はたちまち日本中に広がりました。
1877年には、国内で初めての博覧会が上野公園で開かれました。
45万人もの見学者が集まり「ガラ紡」という機械が人々の目をひきました。
ガラ紡もまた、あちこちの工場に取り入れられました。
このようにして博覧会は国内の人々には新しい技術を知らせ外国には日本の産物を宣伝して産業の発展を促したのです。
それにも関わらず日本の民間の産業は中々、遅れを取り戻せませんでした。
政府の工場や政府の助けを受けた工場がお金をつぎ込んで大きくなりました。
それに比べて、民間の工場はいつまで経っても小さいものが多く、その隔たりは、縮まりませんでした。
日本の産業はこうした隔たりにその後、長く苦しみました。