今回は富国強兵とは? 新しい軍隊の仕組み
徴兵令について、日本の歴史を紹介します。
新しい軍隊
大村益次郎は、日本を盛んにするためには、どうしても軍隊を強くしなければならないと考えていたひとりでした。
今までは、武士だけが武力を持って将軍や大名のために戦ってきました。
そのため武士は普通の人民よりも偉いと考えられていたのです。
しかし、四民が平等になり武士という身分がなくなったのだから、これからは、国民全部が軍隊に入らなければならいと、大村は考えたのです。
武士の軍隊と民衆の軍隊とのどちらが優れているかは第二回長州征伐のとき民衆の軍隊が勝ったことによってはっきりわかりました。
それに幕府を倒す戦いが終わった後は武士は、もう邪魔になるだけでした。
藩ごとに、ばらばらの訓練を受けた武士の軍隊は、新しい政府の役にはたたなかったのです。
ところが、士族の中には古い考えの者もいました。
その人たちは、今までの武士が軍隊をつくったらよいと主張しました。
大村は古い考えの士族のために殺されてしまいました。
徴兵令とは?
大村の考えを引き継いだのが山県有朋や西郷従道でした。
山県が中心になり海軍はイギリス式、陸軍はフランス式に訓練のやり方を決め、徴兵制度の準備が進められました。
1871年(明治四年)に新しい戸籍がつくられました。
この戸籍には全国民が家ごとに載せられました。
また、1873年に徴兵令が出されました。
ヨーロッパの軍隊に習って一般の人々が兵役につくという仕組みがここに出来上がったのです。
さきの戸籍にもとづいて満20才になった男子は誰でも徴兵検査を受け体の丈夫な人は、兵隊としての訓練を受けることになりました。
ただ、役人と役人になろうとして学校に通っているものお金を270円納めたもの税金を納める戸主と、その跡取りは、兵役を許されました。
これらの人たちは政府にとって大切な人々だと、考えられたのです。
農民たちは徴兵令に反対でした。
徴兵をするという、政府の知らせの中に血税という字があったのが、騒ぎを大きくしました。
血税は、兵役を、体をもって納める租税に例えた言葉ですが人々は、兵隊になると血を絞りとられると思ったのです。
しかし、税金は江戸時代とそれほどかわらないのに働き盛りの青年を、兵役にとられては、とても暮らしがたたないというのが徴兵令に反対する、農民たちの本当の声でした。