今回は西南戦争とは? 征韓論について、日本の歴史を紹介します。
士族の不満
新しい政治は、どんどん整っていきました。
しかし、士族の多くは、新しい政治にたいへん不満を持っていたのです。
1873年(明治六年)には仕事についていない士族の数が189万人もありました。
今まで武士には、いろいろ特別の権稚利が与えられていたのですが、その権利は、すっかり無くなってしまいました。
多くの武士が役人になりましたがみんなが役人になるわけにはいきません。
政府は、士族に農業や商業に従うことを勧めましたが慣れないことなので上手くいきません。
大抵失敗して「士族の商法」と笑われました。
士族は、軍隊の仕事だけは自分たちにやらせてもらえると思っていたのが、こえも徴兵令によって望みは無くなりました。
こうして、新しい政治が気に入らない士族たちは江戸時代の方がよかったという気持ちを持つようになりました。
こういう時におこったのが、征韓論です。
征韓論とは?
明治のはじめ、政府は朝鮮半島の韓国に向かって国土国との交わりをしたいと申し込んで断られたことがありました。
このとき、韓国の無礼を懲らしめなければならないと言い出すものがありました。
1873年(明治六年)になってこの間題が再びおこりました。
政府の中にも西郷隆盛・江藤新平・副島種臣たちは韓国を懲らしめようと主張しました。
この意見を征韓論と言います。
匠郷たちは、韓国を攻めることによって士族の不平や、不満を外に向かって吐き出させようという気持ちもありました。
しかし、岩倉具視・大久保利通たちは征韓論に反対でした。
岩倉は、丁度ヨーロッパの国々を見て回って帰ったばかりでした。
そして、今の日本でまず第一にしなければならないことは、産業を盛んにして国を強くすることである。
今、朝鮮と戦争をするべきではないと言いました。
征韓派と反対派は、互いに譲らず激しい議論を続けました。
とうとう、岩倉たちの意見が勝ちました。