今回は自由平等と福沢諭吉とは? 学問のすすめについて、日本の歴史を紹介します。


福沢諭吉とは?

福沢諭吉は、中津藩(大分県中津市)の身分の低い武士の子として生まれました。
1834年(天保五年) の生まれですがこの頃は、飢饉が続いて世間は次第に騒がしくなっていました。

諭吉は、不幸にも三才のときに父を失い母は内職までするという有様で少年の諭吉もその手伝いをするという苦しい生活を送りました。

しかし、この頃は、まだ士農工商の身分がわかれ貧しくとも武士の子は武士らしい生活を送っていました。

この頃、日本の国内は外国船の来航や、倒幕運動などで騒がしくなっており砲術のことがやかましくなりました。

それには、オランダの文字を学ぶことが必要と言われ諭吉はこれを学ぶ決心をしたのです。
こうして諭吉の目が開けると中津では思うように勉強ができません。

諭吉は、故郷の窮屈な生活が嫌でたまらなくなってきて、とうとう21才のときに、長崎に行きました。
長崎は古い開港場で、西洋のことを学ぶには、いちばんいいところでした。

諭吉は、長崎で苦労しながら蘭学(オランダの学問) を学び、それから大坂の緒方洪庵という有名な蘭学者の門人となって、なお深く学びました。

それから江戸に出て、やがてアメリカ・ヨーロッパに渡り新知識を得ました。
帰ってからは新しい文明の指導者となって活躍しました。

学問のすすめとは?

江戸時代は士農工商に身分がわかれ武士も大名から身分の低い足軽まで厳しい上下の差別がありました。
いくら力があっても身分が低いと出世することは困難でした。

そこで、福沢は家柄によっての差別(門閥制度)を心から悪いものだと考え「学問のすすめ」という本を出しました。

その中の「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らずと云えり」という文句は有名です。
これは、人間に上下の区別はない誰でも平等なのだという意味です。

「学問のすすめ」は1872年(明治五年)に初版が20万ほど出され、97年頃までに、340万も売れたということです。

福沢はまた、この中で学問というものは文字や文章を読むだけでなく、人々の生活に、役立つものでなければならないと唱えました。

そして、古い儒学や国学よりも経済学などの新しい学問をすすめました。

自由・平等・博愛、一八世紀の末におこったアメリカの独立とフランス革命によって自由と平等は社会の進歩の旗印となりました。

人間には、生まれながら人間としての権利があるので、これを守ることが政治の目的とされました。
福沢諭吉は、このような新しい思想を唱えたのです。

また福沢は、国と国とも平等でなければならないといいました。

この頃の日本は、長い間の鎖国を止めたばかりで西洋の国々に比べると、国力も劣っており条約も不平等で、国としての独立も充分でない有様でした。

このようなときに、福沢は国民にも国家としても自由と平等が必要であると考えました。
ところが、この頃は自由とは勝手に振舞うことだ、というぐらいしか考えられませんでした。

そこで福沢は、自由とは人々が、お互いに助け合い、自分の勤めを守ることであると言いました。
また、自分の権利を唱えるとともに国の法律をよく守らなければならないとときました。

国民が全て正しく自由を知り、それによって新しい社会をつくれば日本も世界の国々と対等な立場に立つことができると唱ええました。

福沢は「学問のすすめ」のほかにも多くの本をあらわし国民に大きな影響をあたえすすんだ思想を広めるのに多いに尽くしました。




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