今回は慶應義塾とは? 中村正直について、日本の歴史を紹介します。


慶応義塾とは?

福沢は、日本を近代化するためには何よりも教育が大切だと考えました。
彼は、1858年(安政五年)に江戸の築地に蘭学塾を聞きました。

これが、後に慶応義塾となり今に続いています。
福沢は一生役人にはならず民間にあって、この学校を育てることにカを注ぎました。

この頃の学校といえば政府(文部省) が建てたものが多く、私立の学校といえば学者の塾のようなものばかりでした。

福沢は学問について、ただ政府の力に頼らず私立の学校で自由な教育を行い独立の精神を養うことが必要だと考えました。

こうした福沢の教育精神によって慶応義塾には、日本の各地から多くの青年が集まり、その中から立派な人々があらわれました。

教育家・新聞記者・実業家などになったものが多く、また政治家では民権運動の中心となった馬場辰猪・犬養・尾崎行雄などがでています。

中村正直とは?

中村正直は、福沢より2才上ですが、やはり明治の思想家として、優れたな人物で福沢と同じく自由平等思想を広めました。

彼は、若いころ幕府の留学生とともにイギリスに渡り、西洋のすすんだ産業や政治を見て、そのもとには人々が互いに競争して仕事に励む精神のあることに気がつきました。

これはまた、自由の精神に他なりません。

イギリスに滞在しているときイギリスの友人からスマイルズの「自助論」という書物をおくられ、それを読んで、たいへん感心しました。

この本のはじめには「天は自ら助くるものを助く」(天は、自分の力で自分を守っている人を助けてくれる)と書いてあります。

中村は、この本訳し「西国立志編」を出しました。
中村はまた、イギリスの有名な思想家ミルの「自由論」を訳し「自由之理」をだしました。

この本には、自由の意義が詳しく説明してあり、やはり広く読まれて当時の民主主義の運動に大きな力なあたえました。

中村はその後、同人社という塾を開いて多くの生徒に、新しい教育を施しました。

自由を求めて

福沢や中村が、ひとたび自由平等の思想を解き始めると、この思想は四民平等の社会を推し進めるもとになりました。

士族や平民の区別はあっても人々は平等に、好む仕事を選ぶことが出来るようになりました。
さらに人々は民主主義の政治を求めるようになりました。

こうして自由を求める運動が盛んになり福沢や中村の仕事を受け継いで、これをさらに推し進める人々が
次々とあらわれました。

また、新聞や雑誌も新しい思想を広める上にたいへん役立ちました。
植木枝盛は「自由は土佐から」と言われ土佐藩(高知県)に生まれ、自由民権思想のために生涯を捧げた人でした。

人民の権利が、何よりも大事だということを誰にもわかるように面白く書かれたのが「民権自由論」という書物です。

このほか民主主義による日本の憲法の原案を作ったりしました。
このほか、土佐からは中江兆民・馬場辰猪がでました。

中江は若い頃、フランスに留学してフランスのルソーの書いた「民約論」という名高い本を訳し日本のルソーと呼ばれました。

馬場はイギリスに渡ってイギリスの民主政治を研究しました。
日本に帰ってきてからは民権運動に携わり、また民権思想に関する優れた本を書きました。

こうして、民主主義の思想は次第に、日本人の中に広がっていきました。




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