今回は自由民権運動とは? 藩閥政治について、日本の歴史を紹介します。

藩閥政治とは?

王政復古によって成り立った明治の新政府では薩摩藩(鹿児島県の一部)や長州藩(山口県の一部)の二つの藩の出身者が、主な役につきました。

これは、この二藩が幕府を倒す上に最も手柄があったからです。

それについで土佐藩・肥前藩(佐賀県・長崎県の一部)出身者からも新政府の中心に立つものが出てきました。

薩長土肥の四藩は明治維新に最も実力をあらわし特に優れた下級の武土が多くいたことが、このような四藩中心の政治を生んだのです。

これを藩閥政治といいます。

閥とは仲間のことで強い藩の出身者が手を組んで政治をするのをこのように呼ぶのです。
新政府が出来てから、はじめの内は日本の国内は、まだ藩と府県とが混じっていました。

藩を廃して、国内を統一するためには政府の力を強くする必要がありました。
そのためには、薩摩や長州が中心となる政府をつくったのもやむを得なかったと考えられます。

しかし、このような政府は専制的となって広く国民の意見を政治の上に取り上げることはできません。
そこで、藩閥の専制とか有司(役人)の専制とか言う非難をうけました。

自由民権とは?

西洋の歴史を見ても、時代が進むにつれて人民の思想が目覚め人民の政治が求められるようになっています。

フランス革命やアメリカの独立はこのような人民の権利を求めた革命といえます。

日本の明治維新も、古い社会を倒した革命ですからやはり、人民の権利を明らかにすることが必要となりました。

人民の権利を民権といいます。
今日は、民権は基本的人権として憲法の中に定めてあります。

さらに民権は、民主主義による自由が土台になっているので、自由民権、あるいは民権自由といわれました。

自由民権は、民主主義とだいたい同じ意昧で自由民権を推し進める運動を自由民権運動といいます。

自由民権運動のおこり

自由民権連動の中心となったのは士族でした。

特に土佐藩などの士族は、薩摩・長州の藩閥政治に不平を抱くものが多くあらわれ民主的な政治を唱えました。

中でも、征韓論で参議をやめた板垣退助は後藤象二郎・江藤新平らとともに国民が選んだ代表で議会をつくる民選議院設立の建白(申し入れ)を政府にだして、自由民権運動の口火をきりました。

1874年(明治七年)のことです。

板垣にしても、後藤・江藤にしても、これまでは政府の参議をしていた人々です。
その人たちが政府を去ると急に政府を攻撃しはじめたのですから世間の人々は、たいへんおどろきました。

民選議院はまだ早いという反対論もありましたが、この建白は、政府の政治に不平を持つ士族や平民たちには大きな味方となりました。

そこで自由民権の運動は、たちまち土佐を中心として各地に広まりました。

板垣退助は、民選議院の建白をすると、ただちに郷里の土佐(高知県)に帰り、この運動を推し進めるために片岡健吉などの同志と立志社をおこしました。

続いて土佐の隣りの阿波では自助社ができました。
これらは、自由民権の運動期をする政治的な集まりで一般に政社といいます。

1875年(明治八年)には立志社が中心となって大阪で愛国社が結ばれました。
これは、各地の政社の連合をはかろうとするものでした。

人々がそれぞれ人としての義務を尽くし人としての権利を主張し獲得して、一身一家を保つことは大きく言えば、日本はおろか世界の平和のもとになる。

こうして、日本を西洋の各国に負けないようにしたい。
これが、自分たちの愛国の精神である。

愛国社はこのような宣言を発表しました。
新聞や雑誌も自由民権を唱え政府の専制を激しく攻撃しました。

そのために政府に反対する世論が沸き立つようになりました。
そこで政府は、これを危険なことと考えて1875年には新聞・雑誌を厳しく取り締まる法律を作りました。

この法律によって発行を止められた新聞や、刑務所に入れられた新聞記者もたくさんありました。

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