今回は自由民権運動とは? 国会開設の声・集会条例について、日本の歴史を紹介します。

国会解説の声

西南戦争が、まだ終わらない1877年(明治10年)の六月に立志社の社長片岡健吉は天皇に対して専制政府の政治の悪いてんを数え上げて政治を改めるために、民選議院を設け立憲政体の基を、作らなければならないという建白をしました。

これが立志社の建白です。

西南戦争のころまでは政府に不平を抱く士族たちは武力によって反対をししばしば乱をおこしました。
西南戦争もその一つでありました。

しかし、これらの乱も政府の軍隊によって沈められ政府に反対する人々は武力で乱をおこしても駄目だと考えるようになりました。

そこで、彼らはやり方を変え演説や文章の力で政府を攻撃することにしました。
立志社の片岡健吉が天皇に建白したのも文章で政府の攻撃をする方法をとったものでした。

その頃の農民たちは地租改正や徴兵令などの改革が彼らにとって、決して楽なものではないということがわかると政府に強い不満を持つようになりました。

そこで、次第に各地方の農民や商人の中にも自由民権運動に加わる者がでてきました。

1880年(明治20年)には国社が国会期成同盟と名を改め国会(議会)を開くことを政府に求める運動にカを入れました。

この同盟を中心として国各地から「早く国会を開け」という激しい声がおこって自由民権運動は、一段と高まりました。

この年、国会期成同盟が大阪で大会を開きました。
大会には、二府ニニ県の八万七千人が代表を送り出しました。

そして天皇に、国会を早く開いて欲しいという願いの文を、差し出すことを決め片岡健吉と河野広中がこれを携えて東京のぼりました。

ところが、これに驚いた政府は彼らの願いの文を受け取ることを拒みました。
こうして、民権運動の人々と政府とは、互いに敵のようになって争いました。

集会条例とは?

国会開設や、憲法制定を求める声が全国に広まり新聞・雑誌もこれを掲げ、あちこちで演諾会が開かれました。

これを見た政府は1880年4月、「集会条例」を定めて自由民権運動の集まりや演説会をいっそう厳しく取り締まりました。

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