今回は自由民権運動とは? 藩閥政治について、日本の歴史を紹介します。

福島事件とは?

自由党と改進党とは考え方は違っていましたがどちらも自由民権の思想で政府に反対しました。
そこで、政府は政党の力を抑えることに力を入れ自由党の総理板垣退助を騙して洋行をさせることにしました。

これに対して党内から馬場辰猪らの激しい反対がおこりました。
自由党がようやく整ったばかりのときに総理が外国に行くのは政府の策にのるものである。

現に外遊の費用は政府が板垣買収のために出したものである。
という噂があるではないかと反対しました。

板垣は、自分の外遊の費用はあくまで綺麗なお金であると信じていましたが事実は井上馨らが三井から
引き出したものでした。

これを嗅ぎつけた改進党は自由党を攻撃しました。
すると自由党も改進党が岩崎弥太郎の三菱会社と結びついていると言って改進党を攻撃しました。

このような政党同志の争いは政府にとって、都合のいいことでした。
さらに政府は、政党の取り締まりを厳しくました。

特に自由党は、政府にとって目の敵でしたから政府はやっきとなって、これを抑え付けました。
そのために、自由党の激しい考えを持った人々との間にいくつかの事件がおきました。

福島事件は、1882年(明治15年)福島県令(県知事)三島通庸と県会議長河野広中らの自由党員との争いがもとにおこったものです。

三島は鬼県令と言われ自由党の弾圧に力を入れていました。
福島県は自由党の指導者のひとり河野広中の出身地であり、自由党の根強いところでした。

三島はまた、山道やトンネル・橋などをつくることに、たいへん熱心でした。
このために県民たちは重い負担を受けて、迷惑していました。

河野広中を議長とする福島県会も三島県令のやり方に強く反対し三島の出した原案をことごとく否決しました。

三鳥はそれに構わず全て原案通りに実行しました。
三島への反対はますます強くなり、ついに3000の農民が警察署に押し寄せ400余名が検挙されました。

河野ら六人は内乱をおこそうとしたという重い罪で、罰せられ刑務所に入れられてしまいました。
福島事件に続いて関東各地から東海地方にかけて自由党を中心とする騒ぎがおこりました。

新潟県高田でおこった高田事件、群馬県高崎の群馬事件、茨城県の加波山事件、埼玉県の秩父事件、愛知県の名古屋事件、長野県の飯田事件などが次々におこりました。

この頃は、米をはじめとして物の値段が安くなり世の中はひどい不景気になりました。
そのために人々の暮らしは苦しくなり、特に農村の苦しさは大変なものでした。

福島事件以来、政府を倒そうという騒ぎが続いたのも、このような農村の不景気が原因の一つであるといえます。

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