今回は自由民権運動の衰えたのはいつ頃?
保安条例について、日本の歴史を紹介します。

自由民権運動の衰え

政府の取り締まりが厳しくなったために自由党の活動は、たいへん窮屈になりました。

そうなると、総理の板垣をはじめ党の幹部は、このうえ自由党を続けていく意気ごみを失ってしまいました。

そのために、普通の党員や地方の党員たちと幹部との意見があわなくなりました。
1884年(明治17年)10月大阪で開かれた自由党大会で板垣総理は自由党を解散することを明らかにしました。

同じ年の12月には改進党でも大隈重信らが党から抜けてしまったために党の中心を失いました。
この頃には、自由民権の演説会も一時のような勢いは無くなり、あれほど盛んだった自由民権運動も
急に衰えていきました。

保安条例とは?

このころ政府は幕末に諸外国と結んだ条約を改正しようと力を尽くしていました。
当時の外務卿(外務大臣)井上馨は外国の公使と相談して新しい条約を考えました。

しかし、この内容は、まだ日本にとって不利益なことがあり、これを知った国民は、激しく政府を攻撃しました。

そのため、井上の条約改正は取りやめになやました。
条約改正反対運動は一時、衰えていた自由民権運動を再び呼び戻しました。

自由党に属していた人々や改進党の人々は活発に反政府運動をはじめました。
政府を攻撃するデモ行進をしたり演会を開いて、たいへんな騒ぎとなりました。

そこで政府は、これを抑えるために1887年(明治20年)12月に突然、安条例という厳しい法を出しました。
これは、政府に反対する人々を全て東京から追い払おうとする乱暴なものでした。

このために、政府攻撃に活動する570人もの人が、東京から追い出されました。
そのうちの主な者は片岡健吉・星享・尾崎行雄・中江兆民などでした。

こうして自由民権運動の人々は抑えられましたが、やがて議会が開かれるとこれらの人々は、議員として
政府と戦うようになりました。

日本の民主主義の運動は、これから議会の中で進められるようになったのです。

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