今回は伊藤博史とは?
プロシアの憲法・内閣制度について、日本の歴史を紹介します。


憲法をつくる用意 伊藤博文とは?

1881年(明治14年) 天皇は勅諭をだして九年後の1890年には国会を開いて立憲政治をはじめることを
国民に約束しました。

これは、政府がかねて国会を開くつもりでいましたし、また、自由民権運動の人々が早く国会を開くよう要求したからです。

国会を開くためには、憲法をつくり国民の権利や義務などのことを、はっきり決める必要があります。
政府はこの年に、憲法の大方針を定めました。

そして、天皇が単独の意志によって制定し、これを国民にくだすという欽定憲法をつくることにしました。

政府はこの方針のもとに憲法をつくる用意に取り掛かりましたが、これをつくる中心人物として
伊藤博文を選びました。

伊藤は長州藩(山口県の一部)の出身で明治のはじめから政府の重要な役につき、この頃は参議となって、活躍していました。

プロシアの憲法とは?

このような憲法をつくるために、だいたいプロシアの憲法を手本にすることにしました。

プロシアの国は、それまでばらばらであったドイツの国を一つにまとめ10年ほど前にドイツ帝国という強い国をつくったのです。

ドイツ帝国では、皇帝や政府が強い力を持つようになっていました。
これは、天皇のカを強くしようとする日本の政府にとって、よい手本になると考えたからです。

ところが、このような考えは自由民権をとなえる人々が考える憲法とは全く違ったものでした。

自由民権運動の人々は、まず伊国会を開いて国民の考えを入れた憲法を作らなければ民主的な国会はできないと強く主張していたのです。

政府の考えが決まると1882年の春、伊藤博文は諸外国の憲法を調べるためにヨーロッパへ行きました。
主にドイツとオーストリアでプロシア憲法のことを調べました。

そして、天皇や政府の国力を強くするためには、どんな憲法をつくったらよいかということを学び、それによって、自由民権の人々に負けない自信を得て翌年の夏に日本へ帰ってきました。

内閣制度とは?

伊藤はまず、憲法にもとづいた政治をする用意に、手をつけました。
今までの政府の仕組みのままではだめだと考えたからです。

そこで、1885年(明治18年)12月太政官制をやめて西洋風の内閣制度を作りました。

内閣総理大臣を中心に外務・内務・大蔵・司法・陸軍・海軍・文部・農商務・通信の10人の大臣がおかれました。

ここに、初めての内閣が出来たわけです。

大臣は、薩摩・長州の人々が8人でほかには土佐ともと幕府の家来だった人が加わりました。
薩摩と長州の人々が中心となってので、その力はますます強くなりました。

宮中には、別に内大臣と宮内大臣がおかれ内大臣には三条実美がなり宮内大臣は伊藤がかねました。

皇室の財産

天皇の力を強くするためには天皇の家である皇室の基礎を固める必要がありました。
そこで、皇室の財産を増やそうとしました。

政府は明治になってから、たくさんの土地を国のものにしましたが、その内から特別立派な森林・原野・田畑など約360万へクタールを皇室の財産としました。

この他、鉱山や銀行・会社の株も皇室のものになりました。




関連記事