今回は華族制度とは? 憲法の下書きと枢密院について、日本の歴史を紹介します。
華族制度とは?
1884年(明治17年) 伊藤博文の考えで華族令が定められました。
華族は、明治の初めに大名と公家を特別な身分とするためにつくられたものでしたが伊藤は枠を広げて、国家に力を尽くした役人や軍人も、華族にしました。
西洋の制度にならって爵位を定め、これを公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つにわけました。
伊藤の考えでは、後に議会(国会)をつくり、これを貴族院と衆議院とにわけたときにこの華族のうちから貴族院の議員を選ぶためでした。
役人や軍人で華族となったもののうちには、薩摩と長州の人々がたくさんありました。
華族は皇室の護りと呼ばれましたがまた政府の味方にもなり、政治のうえにも多くの働きをするようになりました。
憲法の下書き
政府は、いよいよ憲法をつくることを決めたのは1881年(明治14年)のことです。
伊藤博文がヨーロッパへ行った留守に伊藤の命を受けて憲法をつくる用意を進めたのは井上毅でした。
井上は、そのころ日本にきていたドイツの学者から教えをうけ憲法についての細かい問題を調べていました。
やがて伊藤が日本に帰り、内閣制度ができると1886年(明治19年)頃から憲法や議院のことを定める議院法や皇室のことを定める、皇室典範などを書きはじめました。
この仕事に携わったのは伊藤を頭に、井上毅をはじめ伊東巳代治・金子堅太郎らでした。
このうち、主に憲法の案を作ったのは井上毅でした。
政府は、自由民権を叫ぶ人々の考えと違って政府だけで天皇の命によって憲法をつくろうとしました。
したがって、法憲法の仕組みが自由民権のためのそれとは違いましたから伊藤らは憲法の内容が少しでも世間に漏れることを恐れ、できるだけ秘密を守る工夫をしました。
政府の主な人さえ伊藤がどのような憲法をつくるのか知りませんでした。
伊藤は世間の目を避けるため神奈川県の夏島(在横須賀市の一部)に別荘を造り、そこで仕事を進めました。
ところが、この夏島で憲法を書くために集めた大切な文章の一部が盗まれて世間に漏れました。
そのために自由民権運動の人々から攻撃を受けるという失敗もありました。
この夏島で整理した憲法の下書きを夏島憲法といいます。
憲法の下書きは、念入りに何度も書き直され最後の下書きが出来上がったのは、1888年(明治21年)の春のことでした。
枢密院とは?
憲法の下書きを最後に調べるために、この年の四月に、枢密院が設けられました。
枢密院には、顧問官と呼ばれる役人をおいて薩摩・長州・土佐・肥前出身のカのある人を、これに任じました。
枢密院は、五月から皇室典範・憲法その他の下書きを調べる会議を開きました。
この会議が終わって、これらの法律がはっきり決められたのは1889年1月の末でした。
枢密院は、この後も長く国の大切なことについて会議を行い政治に大きな影響を与えました。