今回は教育勅語について、日本の歴史を紹介します。
官学と私学
1871年(明治四年) 文部省がつくられ西洋にならった新しい学校をつくることがはじまりました。
文部省や、そのほかの政府の役所が建てた学校を、官学といいます。
また、普通の人が自分たちのお金で建てた学校を、私学といいます。
明治のはじめごろは、官学が多く私学の数はたいへん少ない有様でした。
これは明治時代の学校の大きな特色となっています。
官学では、明治のはじめに政府が大学校を建てました。
この大学校がいろいろ移り変わって1877年(明治10年)東京大学となりました。
これは、西洋の大学をまねたすすんだ大学で法律・経済・文学・動物・植物・天文・数学など専門の学問を教えました。
この東大は、外人の教師たちがたくさん来てヨーロッパの学問を取り入れる窓の役目を果たしました。
ドイツ人で医者のべルツ、アメリカ人で哲学者・美学者のフェノロサ、ドイツ系ロシア人で哲学者・古典学者のケーべル、英文学者のケーベルなどが東大で教えました。
彼らの教育が、近代日本の文化に及ぼした影響は少なくありません。
私学では、福沢諭吉の慶応義塾や大隈重信の東京専門学校(早稲田大学)の他に新島裏の同志社や、明治法律学校(明治大学)、東京法学社(法政大学)などが建てられました。
また、キリスト教の学校はミッションスクールと呼ばれ、青山学院や明治学院が建てられました。
教育勅語の発布
憲法が出された次の年の1890年(明治23年)10月には教育勅語がだされました。
教育勅語は、国民の教育の大もとを決めたもので天皇の言葉、つまり勅語の形で出されました。
これは、政府の考えを重々しくするためです。
勅語の考えかたは、儒学の考え方がもとになっていました。
天皇への忠義と親への孝行が教育の基本になっています。
また国民は憲法を重んじ国の法律に従わなければならないとも書いてあります。
教育勅語は、元田永平や憲法の下書きを書いた井上毅らが主に書いたものです。
そして、教育勅語と憲法とが結びつくようにしたのです。
教育勅語は、すぐに全国の学校に配られました。
生徒は勅語を拝み、その教えに従わなければならなくなりました。
学校の教科書も教育勅語の考え方に従って、つくられるようになりました。
勅語と内村鑑三
内村鑑三は、高崎藩(群馬県)の武士の子に生まれました。
札幌農学校を卒業し熱心なキリスト教信者となってアメリカで勉強しました。
1892年(明治25年)内村は第一高等中学校(のち第一高等校、今の東京大学教養学部)の講師をしていました。
教育勅語が配られ、この奉読式が行われたときみな教育勅語にお辞儀をするよう言われましたが内村だけは、キリスト教の考えからお辞儀をしませんでした。
内村は武士の子で日本の国を心から愛していました。
勅語にお辞儀しなかったのは勅語を軽蔑したのではなく、ただ神のほかに拝むものはないと考えていたからです。
このことがたいへん問題となりました。
内村は天皇を敬わないという理由で講師をやめさせられました。
おまけに、キリスト教まで日本の国柄にあわない宗教だと激しい非難を浴びました。