今回は議会政治と政党について、日本の歴史を紹介します。

初めての政党内閣

議会政治の初め頃は、政府と議会は互いに敵味方となって真っ向から争いました。
しかし、政党の力が次第に強くなり政府もこの力を認めてきました。

そこで政党は、内部の仕組みを固めることにカを入れました。
1898年(明治31年) には自由党と改進党が名を改めた進歩党と一緒になって憲政党をつくりました。

これは政党が力を合わせて、その力を大きくするためでありました。
そして、同じ年の六月には、この憲政党が初めて政党内閣をつくりました。

進歩党の大隈重信が総理大臣となり自由党の板垣退助が内務大臣となりました。
陸軍大臣と海軍大臣のほかは、みな憲政党員でしたから、まず政党内閣ということが出来ます。

ところが、この内閣はもとの自由党と改進党の人々の間に争いがおこって、まもなく潰れてしまいました。

同時に憲政党ももとの自由党と進歩党にわかれてしまいました。
このとき自由党の側に立ってカをふるったのは星享でした。

星は、江戸の職人の子に生まれました。
彼は優れた才能を持ち自由党に入って、たちまち党の中でも重い地位につきました。

傲慢なところもあるので何でも押し通すというところから「おしとおる」というあだ名がついたほどです。

政友会と憲政本党

伊藤博史は藩閥の政治家として、いちばん力がありました。
しかし、伊藤は明治憲法をつくる仕事をしただけあって議会政治のことをよく知っていました。

彼は、議会の政治には政党が必要だということを、だんだん、悟るようになりました。
そこで伊藤は、自分で政党をつくることを思い立ちました。

政党を好まない山県有朋などは激しくこれに反対しましたが伊藤は、その望みを遂げました。

1900年(明治33年)伊藤はもとり自由党の人々や官吏などを集めて立憲友会という政党をつくり自らその総裁になりました。

藩閥政治家の伊藤が政党をつくったことは世間の人々を驚かせました。
同年10月、伊藤はつくったばかりの政友会を率いて、4度目の内閣を組織しました。

星享はこのとき逓信大臣となりました。
自由党に反対した、もとの進歩党の人々は憲政本党をつくりました。

憲政本党は、その後に憲政会・民政党と名前を変えましたが政友会と並んで、二大政党として昭和時代の初め頃まで続き日本の政党政治の上に大きな働きをしました。

元老と重臣

政友会ができると、政党の力はいちだんと強くなりましたが、まだ本党の政党政治とはなりませんでした。

やはり藩閥の勢力が政治を動かしていました。
政友会をつくった伊藤博文も政党を好まない山県も政治の上に大きな力を持っていました。

総理大臣を決めるのにも強い力を持っていたのです。

彼らを元老と呼び、多くはもと総理大臣などの重要な職についていたのが、年をとったために第一線を退いた人々でした。

最後に元老となった西園寺公望が1940年(昭和15年)に死ぬまで元老は政治の上に大きな力をふるいました。

また、昭和の初め頃から元老と同じような性格で重臣と呼ばれる人々が、やはり政治の上に強い発言権を持つようになりました。

このような元老や重臣を除いて本当に政党政治らしいものが生まれたのは、太平洋戦争以後のことです。

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