今回は日清戦争について、日本の歴史を紹介します。



日清戦争は、日本と清国とがそれぞれ朝鮮に、勢いを伸ばそうとして始めた戦争です。

朝鮮の開国

朝鮮で勢いを伸ばそうとして日本が朝鮮に注意を払うようになったのは江戸時代の末頃からです。

そして、1873年(明治6年)に征韓論がおこってからはいっそう大きな注意が朝鮮に向けられるようになりました。

そのころの朝鮮は丁度ペリーがやって来たときの日本と同じように鎖国をしていました。

アメリカやフランスなどの欧米諸国は日本を開国させたと同じように朝鮮を開国させようといろいろ力を尽くしましたが、まだ、どの国も成功していませんでした。

1875年(明治8年)日本は欧米諸国に先立って朝鮮を開国させ、朝鮮に日本の勢いを伸ばすきっかけをつくりだそうとしました。

そこで1875年9月日本は雲揚という軍艦を朝鮮の西海岸に派遣し江華島沖から漢江を遡って測量を行いました。

よその国の軍艦が、朝鮮の領域の中に断りもせずに、入ってきたのですから朝鮮の軍隊は、もちろん
日本の軍艦めがけて発砲しました。

しかし、これは日本にとっては待ち設けていたことです。

日本の政府はあくる1876年(明治9年)の二月、六せきの艦隊を伴い黒田清隆・井上を全権として朝鮮におくり朝鮮政に開国を迫りました。

幕末に、ペリーが日本に対して行ったことを今度は日本が朝鮮に対して行おうとしたのです。

アメリカの大使は、日本の代表が上手く朝鮮を開国させることができるよう「ペリーの日本遠征記」という本を日本の代表に渡しました。

これには、ペリーが日本に対して開国を迫ったときのことが書いてあります。

日本の代表は、交渉に成功し日鮮修好条規(江華島条約)という条約を結んで朝鮮を開国させてしまいました。

こうして、日本は朝鮮に勢いを伸ばす足場をつくりました。
清は、これを黙って見ていることは出来ません。

こののち朝鮮を挟んで日本と清との間に激しい争いが続きました。

しかも1885年(明治18年)日本の力を借り清の勢力を朝鮮から追い出そうとした会玉均や朴泳孝の独立運動が失敗してからは日本の立場は清にくらべて、たいへん悪くなりました。




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