今回は下関条約や三国干渉について、日本の歴史を紹介します。


東学党の乱から日清戦争へ

日本をいつか清の勢いを朝鮮から追い出そうとして軍備を整えて用意をはじめました。
その機会は、1894年(明治27年)にやってきました。

その春、朝鮮で東学党の乱がおこりました。
重い税に苦しんでいた農民たちが東学という宗教のもとに集まって反乱をおこしました。

そこで、朝鮮の政府が清に救いを求め清の軍隊が出動しました。
日本も東学党を助けようとし兵を出しました。

日本と清は、農民の反乱をきっかけとして、お互いに軍隊を送り込み朝鮮での勢いを、はっきりと打ち立てようと争ったのです。

こうして、1894年8月1日宣戦が布告されました。
日本軍は次々と各地で清の軍を打ち破り日本の勝利に終わりました。

下関条約とは?

清は降伏し、1895年4月下関で講和条約が結ばれました。
そして、次のような取り決めがつくられました。

  1. 清は朝鮮から引き下がり朝鮮の独立を認めること
  2. 遼東半島・台湾・彫湖島を日本の領土として、日本に渡すこと。
  3. 清は、二億テールの賠償金を日本に払うこと。
  4. ヨーロッパの国々やアメリカが清に押し付けていたような不平等条約を日本も清との間に結んで清と自由に貿易させること。

三国干渉とは?

ところが前から満州に目をつけていたロシアは、ほしいと思っていた遼東半島が日本の領土となってしまうことに不満を持ちました。

そこでロシアは、フランスとドイツをさそって日本に遼東半島を手放すよう要求してきました。
これが三国干渉という出来事です。

干渉というのは、ある国が他国の内政に無理なさしでロを、することです。
日本には、三つの国を相手に戦争をする力がありませんでした。

やむを得ず遼東半島を諦め、その代わりに3000万テールのお金を貰うことになりました。

戦後の日本

日清戦争に勝って、日本が清からとったお金は合わせて3億6460万円という大金でした。
日本が戦争に使った費用は2億2500万円ですから差し引きして1億4000万円ものお金が残りました。
日清戦争は、日本にとって大きな儲けになったのです。

日本の産業が戦争のあとで目覚しい進歩をしたのも、そのお金がもとでしたし、このような好条件のもとで日本の産業革命がすすんだのです。

しかし、とれるはずであった遼東半島がロシアの手にさらわれてしまったことは日本に大きな恨みを残しました。

政府は、三国干渉を跳ね返すには軍事力を強くしなければならないと考えました。
そして、「焚き木の上に寝たり、苦い肝をなめたりと復讐の気落ちを忘れなかった」という中国での昔の話にならって「臥薪嘗胆」という合言葉を流行らせ今にみろ、という復讐心が国民に叩きこまれていきました。




関連記事