今回は日露戦争について、日本の歴史を紹介します。
ロシアとの戦い
日英同盟を結んだ日本は満州から軍隊をひきあげるようにとロシアにむかって要求しました。
しかしロシア軍は中々引き上げようとはしませんでした。
1904年(明治37年)2月8日、日本はロシア軍の基地であった旅順と仁川を攻撃し、あくる日、ロシアに宣戦布告しました。
こうしておこった日露戦争は満州と朝鮮へお互いに勢いを伸ばそうとして日本とロシアが争ったもののですが、この戦争には大きな特徴があります。
それは、日露戦争がうっかりすると世界戦争にまで広がっていったかも知れないということです。
ロシアには、フランスとドイツが味方をしていました。
フランスは、日本とイギリスが同盟を結んだようにロシアと同盟を結んでいました。
ドイツは、ロシアの目をアジアに向けさせておけばヨーロッパでロシアから攻撃される心配がなくなりフランスにむかってすべての力を注げるのでロシアが日本と戦うのをけしかけていました。
こうして、ロシア・フランス・ドイツが一組になっていました。
日本には、イギリスとアメリカが味方していました。
イギリスは日本と同盟を結んだほどの国です。
アメリカは満州で自由に貿易することを願っていました。
それには、ロシアが満州に、ひとり勢いをふるうのが、邪魔になりました。
ですから、アメリカはイギリスと一緒になって日本の味方をしたのです。
ロシア・フランス・ドイツ・日本・イギリス・アメリカという六つの国は、すべて世界の強国です。
これらの国が、日露戦争のために二つにわかれて向かい合ったのです。
もし、フランスがロシアを助けて日本に争いを仕掛けたりイギリスは日本を助けてロシアに戦争を仕掛けたりしたら日露戦争は、すぐにも世界戦争にまで広がっていったでしょう。
しかし日本とロシアの戦争だけで終わり実際の世界戦争は、10年あとになってヨーロッパ大陸ではじまるのです。
日本の勝利
日露戦争もまた日本の勝利のうちに進んでいきました。
けれども、日露戦争は日清戦争と違って日本にとってはたいへん苦労の多い戦争でした。
ロシアは機関銃をもっていましたが日本の軍隊にはまだ機関銃がありません。
はじめて機関銃の攻撃を受けた日本の兵隊は驚きました。
けれども、日本軍は戦いを続けました。
鴨緑江の会戦に勝ち遼東半島の南山を陥れました。
旅順の二○三高地(高さが203メートルある山)を攻撃するときは、たいへんな死傷者がでましたが、ついに旅順を陥れました。
このときの、ロシアのスッテセル将軍と日本の乃木将軍の会見はよく知られています。
日本軍は、さらに攻撃を続けました。
1905年(明治38年)3月10日奉天(今の藩陽)で日本は大勝利を得ました。
しかしそれが、日本軍の戦える最後の戦闘でした。
それ以上戦ったら、日本軍は負けたかも知れませんでした。