今回はポーツマス条約について、日本の歴史を紹介します。
ポーツマス条約とは?
そのためいい加減ロシアが弱ったところで仲直りをしようというのが、はじめからの日本の考えでした。
1905年(明治38年)5月27日日本の海軍は日本海海戦でロシアのバルチックの艦隊を打ち負かしました。
日本の政府はこのへんが丁度よいときだろうと思いました。
そこで、アメリカの大統領ルーズベルトにロシアとの講和の仲立ちをしてもらいたいと頼みました。
ルーズベルトの仲立ちによる講和会議は8月にアメリカの軍港ポーツマスで開かれました。
そして、9月5日に講和条約ができました。
これをポーツマス条約と呼んでいます。
- 朝鮮の指導と監督は、日本がする。
- 今までロシアが中国から借りていた満州の旅順・大連は日本が借りる。
- 南満州鉄道を日本に譲る。
- 南樺太と、北洋漁業の権利を日本が貰う。
以上が条約の取り決めでした。
ポーツマス条約によって、日本はだいたい臨み通りのものをロシアからとることができました。
しかし、賠償金は一銭もとることができませんでした。
戦争中の苦しい生活をじっと我慢していた国民たちは賠償金がとれれば少しは楽になるだろうと思っていました。
ところがそれがとれないので国民は政府に腹を立てました。
そのため、講和条約に反対する運動がおこり東京・横浜・京都・神戸などの都市では大きな騒ぎが持ち上がりました。
しかし、ロシアが賠償金を払わないからといって、これ以上戦争を続ける力はもう日本には、残っていませんでした。