今回は明治時代の資本家と労働者について、日本の歴史を紹介します。

資本家が生まれる

明治政府の役人たちとうまく関係をつけ、それを利用して、儲けていった大商人たちを政商といいました。

三井・三菱はその代表です。

三菱は政府の保護をうけ汽船会社として勢いをふるい西南戦争でも軍事輸送を一手に引き受けてたいへん儲けました。

三井組は古くからの豪商でしたが明治になると新政府の御用金をまかない官金を扱う為替方を命じられました。

1872年(明治5年)には小野組と共同で第一国立銀行を建てました。

このような政商が近代的な財閥資本家となったのは政府から官営工場の払い下げを受けたのがもとでした。

三菱は、長本崎造船所を払い下げてもらい、ここをもとにして、事業をもっぱら重工業にうつし三菱財閥として伸びていきました。

三井もまた、井上馨のつくった商事会社を受け継ぎ三井物産のもとをつくりあげました。
その後官営の三池鉱山を手に入れ、これを足場にして近代産業を支配する大財閥となりました。

そのほか、浅野総一郎が官営深川セメント工場を譲り受けて浅野セメント(現在の日本セメント)をつくり浅野財閥のもとを築きました。

古河市兵衛は、足尾銅山を手に入れて古河財閥を築き上げました。
住友は、古くから別子銅山を経営していましたがこれをもとに金属工業へ進出していきました。

これらの財閥は、多く銀行を経営し、その資本をもとにして産業界に支配の手を伸ばしていきました。

労働運動の発展

このように発資本家の勢いが強くなり、彼らの経営する大工場には多くの労働者が働くようになりました。

そうなると、いろいろな労働問題かおこり、その問題をめぐって労働運動もおこってきました。
明治初年からはやくも労働問題が生じ1887年(明治20年)前後から労働運動もおこりはじめました。

1897年(明治30年)には「労働組合期成会」ができるなど労働組合をつくる動きも活発になり、大きなストライキもおこるようになりました。

労働者は、工場の設備をよくしてほしいとか安い賃金を高くしてほしいとかいう要求を出しました。
日清戦争のあと労働組合もだんだん多くなりました。

日露戦争のあとには労働組運動が、いっそう激しくなりました。

1906、7年(明治39、40年)には大阪砲兵工廠や、足尾・別子の銅山などで労働者がストライキや、暴動をおこしました。

とくに足尾銅山の暴動はひどく軍隊の出動によって、ようやく鎮められました。

足尾の暴動が、他の鉱山労働者を刺激し生野・別子・夕張などでも暴動がおきました。

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