今回は社会主義とは? 大逆事件について、日本の歴史を紹介します。


社会主義とは?

これらの労働運動にはアメリカやヨーロッパの国々から帰国した人たちが大きな影響を与えましたが
社会主義の考えかたも、強く影響しました。

社会主義というのは労働人たちの暮らしをよくするために資本主義の社会を改めようという考え方です。
当時の社会主義者の代表的な人に片山潜・堺利彦・安部磯雄・幸徳秋水などがあげられます。

戦争反対

社会主義者は、戦争は労働者や農民を苦しめるだけだと考えました。
そして日露戦争のときには「万朝報」や「平民新聞」を通じて戦争反対を叫びました。

大逆事件

こうした労働運動や社会主義運動の高まりに対し政府は、1900年(明治33年)に治安警察法という法律をつくったりして強い取り締まりを加えました。

しかし、それにも関わらず1906年(明治39年)には日本社会党働がつくられ社会主義を広める運動は根強く続けられていましたが翌年には、政府の圧力によって出来たばかりの日本社会党は解散させられました。

1910年には、有名な大逆事件がおこりました。

この年の6月宮下太吉・新村忠雄・古河力作・菅野スガの四人が明治天皇を殺そうと企てたとの理由で
捉えられました。

彼らは幸徳秋水の教えを受けていた社会主義者たちでした。
政府はこの事件をきっかけにして全国の社会主義者をそっくり捕まえてしまおうとにしました。

大勢の社会主義者が捉えられ秘密の裁判にかけられました。

そして、幸徳秋水をはじめ12人の社会主義者が天皇を殺そうとしたという罪で死刑になり、さらに12人が無期懲役になりました。

これが大逆事件です。

大逆事件以後、政府の取り締まりは、ますます厳しくなったため日本の労働運動と社会主義運動は明治の末から大正のはじめにかけて火が消えたようになり「冬の時代」に入ったといわれています。

こうして、労働者を保護する法律や制度は、なかなか進みませんでした。
1911年(明治44年)には幼少年者や婦人の労働を保護することを中心とした工場法ができました。

しかし、これは手ぬるいもので実際に行うのは5年後と決められました。


地主と小作人

明治の末には、工業の面では産業革命もほぼ終わりました。
大企業も多くなり、三井・三菱などは財閥として形を整えるほどになりました。

これに比べて、農業の進歩はたいへん遅かったのです。

農業資本家が、労働者を雇い農業生産を行うという、近代的な農業経営はごく一部でしかできませんでした。

多くは、地主が自分は耕作や農業経営を行わず小作人に土地を貸して年貢米を取立てる方法、つまり地主制がますます固まっていきました。

そしてまた、日本の農業は家族の労働による、極めて小さな経営を中心とする仕組みに、固まっていったのです。

農村の暮らし

農業は、品種の改良、肥料の普及、農機具の発達などによって、ゆっくりした歩みながら進んでいきました。

魚のしめかすや、満州から輸入した大豆かすが肥料になり、やがて化学肥料も使われるようになりました。

そのため農作物のとれ高はだんだん多くなり、また生糸や絹織物の輸出が増えるにつれて養蚕が盛んになり・クワ畑も増えました。

しかし、農民の暮らしは、なかなか楽になりませんでした。
とれた農作物の半分以上は小作料として地主に納めなければなりません。

その上、日用品も肥料も農具も農民がつくって売る農作物に比べて、ずっと値段が高かったのです。

暮らしに困った農民たちは娘を女工にしたり暇なときには、出稼ぎにいったりして暮らしのやりくりをしました。

しかし、それでも自分の土地を手放してしまうものが増え小作をする農民はますます多くなるばかりでした。

農民の運動

1900年(明治33年)頃になると都市の労働運動の影響を受けて農民たちの組合がつくられるようになりました。

そして農民たちの小作料を安くするためにカを合わせて地主に向かっていきました。
こうして、地主と小作人とが全国各地で、激しく争いあうようになるのです。




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