今回は近代文学について、日本の歴史を紹介します。
近代文学の誕生
西南戦争が終わり、世の中が落ち着くと文学が年をおって盛んになりました。
その中で一番目覚しい発達を遂げたのは小説です。
1885年(明治18年)、坪内道遥は「小説神髄」という本を書き「新しい小説は世の中の姿や人間の生活をありのままにうつし、人情・心理を描くことを目的とすべきだ」と説きました。
この考えを受け継いで二葉亭四迷は「浮雲」という小説を書きました。
「浮雲」の文章は、それまでの古めかしい文章とは違って普段使っている言葉を、もとにしたものでした。
こうして、坪内道遥・二葉亭四迷らによって近代小説の道が開けていったのです。
紅葉と露伴
尾崎紅葉・山田美妙たちは硯友社という文化団体をつくり日清戦争前後に活躍くしました。
紅葉の「金色夜叉」、幸田露伴の「五重塔」は、よく知られています。
そのほか女流作家として代表的な樋口一葉も「たけくらべ」など、すぐれた作品な発表しました。
自然主義文学
日露戦争後になると自然主義の小説が盛んになりました。
これは、文章の美しさや好みに捕われず世の中や人間の生きかたを、ありのままに見てどんな醜いことでもはっきり書きあらわそうとするものです。
島崎藤村・出山花袋・徳田秋声・国木田独歩などが広く知られています。
漱石と鴎外
自然主義文学はたいへん流行しました。
これに反対の立場をとり独自の文学を打ち立てた作家に夏目激石と森鴎外がいます。
激石は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」、鴎外は「青年」「雁」など多くの立派な小説を書きました。
詩・和歌・俳句
小説ばかりでなく、詩・和歌・俳句も新しい形や考えかたでつくられるようになりました。
詩は、西洋の詩を真似た新体詩というものが大学の先生によって、明治の10年代から試験的につくられていました。
これを1900年ごろに島崎藤村・土井晩翠などの詩人があらわれて立派なものに仕上げました。
藤村は「若菜集」二葉舟」「落梅集」などの詩集を発表しました。
晩翠は有名な「荒城の月」を書きました。
新しい短歌をつくることに勤めた人として与謝野鉄幹とその妻晶子・正岡子規・石川啄木などがあげられます。
鉄幹・晶子は「明星」という雑誌を発行し短歌のうえに大きな影響を与えました。
正岡子規はまた、病気と戦いながらも俳句の改革に勤めました。
彼は、古い俳句を「月並」といって排斥し絵で教えられた写生ということにカを注いだ句をつくりました。
この俳句はのちにイギリス・フランス・アメリカの詩に影響して、イマジズム(写象詩)という新しい詩をおこしました。
芝居
芝居も江戸時代のものとは非常に変わってきました。
坪内道逢が西洋の芝居を研究して古くからある歌舞伎劇を新しい時代に向くように作り替えました。
その後を追って岡本縞堂という作家がでて歌舞伎の発達に尽くしました。
また、壮士芝居というものがおこって当時のできごとを演じ、その目新しさが喜ばれました。
また、小山内薫らの力によって、これまでの歌舞伎と全く違った西洋風の新劇がつくられました。