今回は明治時代頃の美術と音楽について、日本の歴史を紹介します。
美術
明治のはじめごろ、イタリアから油絵・水彩画・彫刻の先生がやってきて教えました。
そのため西洋美術は非常にすすみました。
哲学の教師としてやってきたアメリカ人のフェノロサは「日本の絵画は非常に優れているのだから、それを大切にしなければいけないと演説しました。
そして、世の中から忘れられていた狩野芳崖・橋本雅邦などの優れた絵の値打ちを見出しました。
また岡倉天心はフェノロサと力を合わせて日本画を盛んにするために努力しました。
1889年(明治22年)には東京美術学校(今の東京芸術大学美術学部) がつくられ岡倉天心が校長になりました。
彫刻は日本にあるのは奈良や鎌倉の大仏のような金彫か、あるいは寺にある仏像のような木彫か、石仏でした。
そこへイタリア人教師がきて石膏像からはじめる西洋彫刻を教えました。
その弟子たちがつくったのが東京の上野にある西郷隆盛や九段にある大村益次郎の銅像などです。
建築も、西洋館が数多くみられるようになりました。
音楽
アメリカ滞在中に洋楽を学んだ伊沢修二の勧めによって1879年(明治21年)文部省音楽取調掛ができ
本格的な音楽教育がはじまりました。
そして、小学校の唱歌に西洋風の音楽を取り入れるなど新しい音楽教育、洋楽の普及が勧められました。
1885年、文部省音楽取調所が東京音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)となりました。
ここから有名な人が数多くでました。
中でも天才といわれたのは24才の若さで死んだ滝廉太郎です。
「荒城の月」「箱根山」「鳩ポッポ」「すずめ、すずめ、きょうもまた」などは彼の作曲した歌です。
このように明治時代の芸術は西洋の影響を受けて、今までになく新しい発展を遂げました。
しかし、絵画を除いては広く世界に知られるまでには至りませんでした。
漱石らの小説や「荒城の月」が海外にまで知られるようになったのは昭和になってからです。