今回はパリの講和会議とは? 国際連盟について、日本の歴史を紹介します。



第一次世界大戦は、戦争に加わった国が36か国、死んだり傷ついたりした人が、ざっと3000万人にも上るという今までにはない大規模な戦争でした。

そして、人々は戦争の恐ろしさを今更ながら感じ、ようやく訪れた平和を心から喜び合いました。

パリの講和会議

1919年(大正8年)1月18日からパリの郊外のべルサイユ宮殿で講和会議が閉かれました。
日本も、この会議にはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアとともに五大国の一つとして出席しました。

この会議の結果、ドイツはその領土を大きく削られ莫大な賠償金(戦争の相手国に負わせた損害に対して支払う金)を連合国に払うことになりました。

また「一つの民族は、それぞれ一つの独立した国をつくるべきだ」というアメリカのウィルソン大統領の主張に基づいてポーランド・チエコスロバキアなどの国々が独立しました。

なお日本は、山東省にドイツが持っていた権利を受け継ぎ、さらに、太平洋の赤道の北にある、もとドイツ領の島々を委任統治(ある地域を治める権利を任せられること)することになりました。

こうして、日本の国際的地位は多いに向上しました。
しかし、このべルサイユ会議の取り決めにも欠点はありました。

それは、大国の利益が中心で小国の意見は取り入れられ全ての国々が満足して決められたものではなかったことです。

国際連盟

講和会議に出席したアメリカのウィルソン大統領は世界の平和を守る仕組みとして国際連盟をつくろうと言い出しました。

戦争に懲りた各国はすすんで、この意見に賛成したので、1920年に国際連盟が出来上がりました。

国際連盟は、世界の国々が互いに領土と独立を尊び国と国との争いを話し合いでまとめるために別れた機関です。

たしかにそれは、立派な考えだと言えます。

しかし、つくろうと言い出したアメリカは議会が反対をしたため連盟に加わりませんでした。
また、ソビエトもドイツもこれに加わることが、許されませんでした。

そのため、国際連盟ははじめから完全なものとは言えず世界の平和を国と国との話し合いによって守りぬくだけの力を持たなかったわけです。

しかし、日本は国際連盟でもイギリス・フランス・イタリアなどとともに常任理事国という大切な役目を受け持つことになりました。