今回は関東大震災について、日本の歴史を紹介します。
明治維新以来、我が国は西洋の文化を次々に取り入れてヨーロッパの国並みの文化を身につけようと一生懸命努力しました。
それは、長い間鎖国をしているうちに、すっかり世界の様子が代わってしまい、このままでは、日本はとても独立国として立つことはできないと考えたからです。
そこで、なにもかも西洋と同じようになることはできないので、せめて形だけでも同じようにしたいと考え政治や経済の仕組みはもちろん文化の上でも、西洋文化をやたらに取り入れました。
ですから、そこには、行き過ぎもあり奇妙な姿かたちでてきたわけです。
しかもそれは、「日本橋の文明開化」などといわれたように都会では、新しい文化の姿があっても田舎では、昔と同じ姿が生活の中に残っていたわけです。
このような新しい文化が都会だけでなく全国にまで行き渡り、また日本の古い文化と溶け込んで借り物でなく、本当の日本の新しい文化が生まれるためには、何十年かの年月が必要だったのです。
大正の文化
文化が進むためには政治や経済などが進歩しなければなりません。
文化には、こうした政治や経済の動きが、よく映し出されるのです。
大正の文化の特色は一口で言えば、日本の新しい文化がようやく固まって、民衆の文化となったということです。
民衆の文化となるためには、まず民衆の生活が、高まることが大切です。
明治以来幾度かの苦しい時代を通って日本は大正に入ると第一次世界大戦のときの好景気により一時的に日本の経済が豊かになりました。
民衆の生活は高まり民主主義の考え方が盛んに唱えられ、それに刺激されて日本で、はじめての本格的な
政党内閣ができたり普通選挙が行われるなど確かに明るい空気がみなぎっていました。
もちろんそれは基礎のしっかりしたものではなかったため、そののち、暗い空気に変わってしまいましたがともかく、明治以来の努力が一応実って花を咲かせたときだったと言えます。
教育の広まりと学問の発達
この時代は、学校の数がたいへん増えました。
とくに、中学校や女学校の増え方は著しく大正時代だけで、両方合わせて363校も増えました。
このことは、教育が一層広く国民の間に行き渡ったことを示しています。
また、大学・高等学校・専門学校(旧制)などの増えたことによって世の中に多くのインテリが生みだされ
大正デモクラシーも、これらの人々によってより深く理解されました。
いっぽう教育の広まりとともに学問のほうも非常な発達を遂げ外国の真似から抜け出すようになりました。
とくに、化学・物理・工学など自然科学の研究は一段と進み、この時代の重工業や、化学工業の発達に
たいへん役立ちました。