今回は張作霖事件について、日本の歴史を紹介します。


中国進出

1922年(大正11年) 政府が九か国条約を結んだので中国本土へ伸びようとしていた日本の勢いは、いったん挫けることになりました。

このことのために激しく政府を責め立てたのは軍人でした。

また、資本家たちも第一次世界大戦が終わってから、ずっと続いている不景気がだんだんひどくなっていく一方でしたので政府の政治に、必ずしも賛成ではありませんでした。

そして、生活に苦しんでいる労働者たちは各地でストライキをおこし、農民たちも小作争議をおこしました。

このような有様を見て政府もこの不景気を乗り切るために日本の勢いを、満州や中国本土へ伸ばさなければならないという考えを強くしました。

1927年(昭和2年)陸軍の大将で政友会総裁であった田中義一が総理大臣になりました。

これまでの内閣は、イギリスなどとの関係から強い態度をとることができずにいましたが田中内閣は、中国へ向かって強く勢いを伸ばしていくことを、はっきり決めました。

そのころ、中国では、1911年(明治44年)の革命で中華民国ができていましたが、まだ国として、しっかりまとまっておらず勢いのあるものが幾つかに分かれて互いに争っていました。

田中内閣はこの隙を狙って、たびたび中国に軍隊をおくり中国本土へ、勢いを伸ばそうとしたのです。

日本と満州

はじめ、日本の勢いは中国でもとくに満州に向かって伸びていきました。
満州は、今の東北区のことで日本の約3倍もの面積がありました。

そして、日本は、日露戦争後この満州に南満州鉄道をしいて大きな利益をあげていました。

また満州は、石炭・銑鉄なこの工業原料や大豆などが豊かなので日本はこれらの品物を満州から輸入して
代わりに、綿製品・雑貨・機械器具などを輸出していました。

このように、満州は日本の経済を支える重要なところでした。
そのころ、満州には関東軍といわれる日本の強い軍隊がわかれていました。

関東軍の軍人の中には自分たちが日本の軍部の先頭に立って満州をしっかり握ってしまおうと考えるものが大勢いました。

張作霖事件

ちょうどその頃、満州では張作霖が勢いをふるっていましたので日本は、張作霖と結んで勢力を伸ばそうと考えました。

しかし、張作霖は日本と結ぶのを嫌いました。

そこで、関東軍の一部の軍人は張作霖が国内での戦いに負けて奉天へ逃げ帰る途中、彼の乗っている列車を爆破して彼を殺してしまいました。

この事件は、日本の国民には秘密にされていました。
しかし、中国は言うまでもなく世界中に知れわたり、日本は世界の国々から激しい避難を浴びました。

また中国への出兵は中国人をひどく怒らせ、中国各地で日本人や日本の商品を退ける運動が広がりました。

そのため、日本の国内でも田中内閣を批難する声が強くなったので、田中内閣はついに総辞職しなければならなくなりました。