今回は満州事変について、日本の歴史を紹介します。
浜口内閣
田中内閣の跡を継いだ浜口内閣は田中内閣のような激しい外交政策をとりませんでした。
1930年(昭和5年)にはロンドンで軍備縮小の条約を結んだり中国との関係をよくしようとしたりしたので、世界の国々とのあいだもいくらかよくなりました。
しかし国内では政府が軍部の反対を押し切って軍備縮小の条約を結んだことは軍部、とくに海軍の若い軍人を怒らせました。
そのため総理大臣浜口雄幸は1930年(昭和5年)11月東京駅で、右翼の青年によって傷を負わされ、それがもとで翌年に死んでしまいました。
満州事変
張作霖が殺されたあとの満州では、その子どもの張学良が支配するようになりました。
しかし、父親が日本人によって殺されたことを知った張学良は蒋介石の率いる国民政府と結んで
日本に対抗しました。
そして、日本の製品を買うことをやめたり満鉄に乗ることなやめたりしましたので満州でも反日感情は、次第に高まっていきました。
政府のやり方に不満を抱いていた軍部は、なんとかして、この満州を自分のものにしようとはかり、たえず満州攻撃の隙を狙っていました。
そして、ついに1931年(昭和6年)9月18日満州で戦いの火の手があがりました。
これが満州事変です。
満州事変は、奉天(今の洛陽) のすぐ北にある柳条溝というところで、南満州鉄道が中国の軍によって爆破れたことから始まったというのが、政府の発表でした。
そして、国民の大部分はその通りに信じていましたが事実がそうではありませんでした。
鉄道を爆破したのは、関東軍自身でした。
(実際には鉄道は少しも壊されておらず、そのすぐあとを列車が何事も無く通っていったとも言われています)
関東軍は、鉄道爆破の罪を中国軍にきせ勝手に中国軍に戦いを仕掛けたのでした。
政府は、はじめ戦争をあまり大きくしないことに決め国民も戦争をあまり好みませんでした。
しかし関東軍は、そういうは政府の決定や国民の考えに従わないだけでなく戦争をやめようという中国からの申し出もぜんぜん受付けませんでした。
そして、どんどん軍隊をすすめ各地で中国軍を攻撃していきました。
日本軍が満州で戦争をはじめたことは世界の人々を驚かせました。
中国は国際連盟に訴えて日本の侵略を批難しました。
アメリカなども、日本を激しく批難しました。
しかし日本軍は、そういうことには構わずに戦いを続け、戦争がはじまってから四か月たったあくる年の1月には、とうとう満州を全部占領してしまいました。
また、同じ1月には、今度は海軍が上海で戦いをはじめました。
しかし、ここでは中国軍の激しい抵抗で日本軍は大きな損害を受けました。
これを上海事変といいます。