今回は第一次世界大戦 強まる軍部の力について、日本の歴史を紹介します。
盧溝橋事件
満州事変がおこってから1年半経って満州での戦いは、ほぼ完全に終わりを告げました。
しかし、日本軍は満州国の国境を守るという理由で国境を越えて中国本土へ進んでゆきました。
1937年(昭和21年)7月7日北京の近くの盧溝橋というところで日本軍と中国軍とが争いをおこし、とうとう日本と中国との戦争がはじまりました。
これが日華事変といわれるものですが名前は事変でも、実際には戦争でした。
中国の中心でおこったこの戦争は満州事変とは、全く違ったものになりました。
なぜなら中国が非常に強い反抗をしたからです。
戦場は中国の北部から中央部へと、だんだん広がっていきました。
日本軍は各地の戦いで中国軍を破っていきました。
しかし、なにしろ広い中国大陸です。
ところどころの戦いに勝手も戦争はいつ終わるのか見当がつきません。
中国側の激しい反攻の影には日本の無茶なやり方に憤りを感じて、あくまで戦いぬこうとする中国国民と
中国共産党との強い力がはたらいていたのです。
そのころの中国は蒋介石の率いる国民政府が納めていましたが、国民政府のやり方に反対する中国共産党は毛沢東を中心に、日に日に強い力をたくわえていました。
共産党と国民政府とは互いに反対の立場に立ちながら日本軍に対抗するというてんでは1つになって、ますます激しく反攻したのです。
国家総動員法
戦いがはじまると軍部と政府(近衛文麿内閣)は国内の組織を全て戦争のために作り替えようとしました。
1938年4月に出された国家総動員法がそれです。
これは政府が自由に国の経済活動や国民生活を支配できる法律です。
政治はまず、戦争に反対するものを片っ端から捕らえて、監獄に放り込みました。
労働者や農民の運動も抑えられ後には、労働組合や農民組合は解散させられました。
組合があっては、戦争を続けていくのに邪魔になるからです。
また政党も解散させられました。
議会はありましたが政党のない議会はもはや議会ということはできません。
大学での学問も戦争に九反対するものは言うまでもなく批判的なものも許されなくなりました。
国の経済も全て、戦争のために作り替えられてきました。
戦争でたくさんの兵器を使うので、軍需工場は盛んに活動しました。
物をつくるのに必要な原料や機械などが軍需工場にばかりまわされて、軍需工場でないところへは行き渡らなくなりました。
そのために、国民が日常の生活に必要とする品物の生産は次第に減っていきました。
米も、砂糖も、衣料品も次第に店先から姿を消していきました。
軍需工場が発展したおかげで労働者の収入は少し増えましたが生活に必要な品物が少ないために、なかなか買えなくなりました。
また品物があっても、それは質が悪く値段が驚くほど高くなっていました。
戦争のために、金儲けが出来たりは軍需工場を持っていた一部の資本家だけでした。
国民の大部分は、戦争とともに、ますます苦しい生活をしなければならなくなったのです。