今回は日独伊三国同盟について、日本の歴史を紹介します。


日独伊三国同盟

中国での戦場が、中部から南部に広がっていくと、この地方にいろいろの権利などを持っていたアメリカや、ヨーロッパの国々との間に揉め事がおこるようになりました。

これらの国々は自分たちが中国に持っている権利を守るために、日本に向かってようやく強い態度をとるようになりました。

そして、日本との取り引きをしなくなったり蒋介石に兵器をおくって日本にて向かわせたりしました。
また日本は、北のほうにも敵がありました。

ソビエト連邦がそれです。

ソビエト連邦は1917年(大正6年)の革命以来、急激に発展した国です。
しかもソビエト連邦は、共産主義の国でした。

日本の軍部や政府は、共産主義の考えが我が国に広がるのを、たいへん恐れていました。
そのソビエト連邦と日本とは満州とソビエト連邦との国境である黒竜江を挟んでにらみ合っていました。

1939年に両国の軍隊がノモンハンというところで争いをおこし、日本軍が負けたことがありました。
ですから、日本にとっては北のソビエト連邦も怖い敵だったのです。

このように日本は、ただ中国と戦争をするばかりでなく北にも、南にも怖い敵を控えて、アジアで孤立しなければなりませんでした。

三国同盟

いっぽうヨーロッパでも、また戦争がおこりそそうになりました。

第一次世界大戦に負けたドイツでは戦後莫大な賠償金を背負わされてまだ復興もおぼつかないところへ世界的な不景気の波が押し寄せたのですからたまりません。

国民は、苦しいどん底の生活に突き落とされました。
しかも、戦後のドイツでは政治がしっかりしておらず全く、希望のない暗い社会になりました。

こうした社会へ、ヒットラーの率いるナチス党があらわれたのです。
ナチス党は、ドイツの行き詰まりを救うために外国に戦争しかけて植民地を広げようと叫びました。

ですから、ナチス党はたちまち大資本家の援助を受けて日本の軍部と同じように武力によって、わがままな政治をするようになりました。

イタリアでもムッツリーニが政権を握り、民主主義とは反対の方向へ国の政治を引っ張っていきました。

そしてこの二国は武力によって、他の国を倒してでも国の力を強くしようという政策のもとに固く手を結びました。

日本も、この2つの国とだんだん近ついていきました。

国内に資源をもっていないので、他の国を侵略しようというてんで日本は、ドイツ・イタリアに似ていました。

そして、民主主義は行われず軍人が幅を利かし、共産主義を倒そうというてんでも、この三つの国は、似ていました。

国際連盟から脱退して世界の仲間はずれになっていた日本は、こうしてドイツ・イタリアに近づいていったのです。

その後、1940年(昭和15年)この三国は同盟を結び、共同してアメリカ・イギリス・フランスなどの国々と戦争することになりました。

この同盟は、日(日本) 独(ドイツ)伊(イタリア)三国同盟といっています。