今回は第一次世界大戦 強まる軍部の力について、日本の歴史を紹介します。


不自由な暮らし

戦争の様子が、思わしくなくなってくると政府や軍部の国民に対する態度は、さらにひどくなってきました。

国民の自由な活動は全く禁止され、ただ政府や軍部の言うとおりにしなければなりませんでした。

町には憲兵が歩きまわって国民の動きに目を光らせ少しでもへんなところがあると思われたら、すぐに「お前はスパイだ」と言って、ひっぱっていかれてしまいました。

国民はもう怖くて、思ったことも口に出せなくなりました。

新聞・ラジオなどの報道機関も政府や軍部に言われたとおりのことを国民に伝えるだけになってしまいました。

どんな負け戦があっても負けたことを国民に知らせることは許されませんでした。
本当のことを知らせるとデマを飛ばしたといって厳しく罰せられました。

英語は敵の国の言葉だから教えてはならないといって学校でも英語の時間が禁止されるといったこともありました。

学徒動員

国民の暮らしは、日に日に苦しくなりました。

若い元気のある男の人はもちろんのこと年をとった人でも、体の弱い人でもかたっぱしから兵隊にとられていきました。

あとに残った男は老人か子どもか病人だけでした。

そして、工場や農村で、働く人が足りなくなったので中学生や女学生までもが勉強をやめ、軍需工場や農村で働かなければならなくなりました。

戦争で多くの兵隊が死にましたが、このような工場での慣れない仕事で事故なおこして死んだり怪我をしてかたわになった人も大勢います。

また大学生は、それまで卒業してから兵役につくのが決まりでしたが戦争が行き詰ってくると卒業を繰り上げて戦場に送り出されていきました。

兵器の不足

日本には、もともと資源が足りないので海外からの資源がこなくなると兵器がつくれなくなってたいへん困りました。

その上、たびたびの負け戦で飛行機は撃ち落とされ軍艦は沈められてしまっていました。

そこで、政府や軍部は、廃品回収といって今までは、捨ててわかれた古釘や錆びたトタンなど、なんでも工場へ持っていき、それで新しい兵器をつくろうとしました。

しかし、それくらいのことでは間に合いません。
戦場では鉄砲が立ちなくなったり、弾も無くなったりしました。

そして、ときたまできる兵器も質が悪く飛ばない飛行機も、決して珍しくありませんでした。
戦争の終わり頃には爆撃で工場が焼け、兵器の生産ができなくなってしまいました。

配給

兵器がこのような有様ですから生活必需品が無くなるのは当然です。

米や衣料品だけでなく、食料品や日用品のほとんどが配給といって、少しずつ割り当てて配られるようになりました。

国民が、物がなくて困っているとき一部の軍人や役人たちは、いろいろな物資をこっそり我が物にしたり
また高い値段で人に売ったりしました。

このようなものを、やみ物資といっていました。

こうして、一部の軍人や役人やお金な持った人々は、戦争中でもやみ物資を手に入れて、贅沢をしていましたが国民の大部分は青白い顔をして「欲しがりません、勝つまでは」と言いながら苦しい生活に耐えていました。