今回は平和条約と国連加盟について、日本の歴史を紹介します。
講和条約
大戦が終わっても、まだ平和条約が結ばれていなかったので、これをもとめる声は、各国の間に高まっていました。
しかし、アメリカとソ連など共産主義国との間がしっくりしないため太平洋戦争の交戦国のすべてが参加する講和は難しい有様でした。
日本の中にはそうした二つの世界の一方とだけ講和するのはよくないという学者たちの意見も強かったのですが結局、1951年(昭和26年)9月にアメリカのサンフランシスコでソ連・中共などを除いて講和条約が結ばれました。
この条約によって、日本は主権を回復し連合軍の占領を免れる立場になりました。
しかしその条約の内容はつぎのようなものだったので日本の本当の独立は、難しいものになりました。
- 日本は朝鮮の独立を認め台湾・千島列島・南樺太などのもとの領土を手放す。
- 琉球諸島などは国際連合が預かり、その政治は、なおアメリカがみる。
- 連合国軍の軍隊はすぐ日本から引き上げる。しかし、日本と特別の約束をした国の軍隊は留まっていても構わない。
- 日本は連合国に賠償金を払う。
賠償金の額については、それぞれの国と、別に相談して決める。
このサンフランシスコ条約の調印に続いて日本はアメリカと日米安全保障条約を結びました。
この条約は、武力によらなければならないが、あいにく日本は武力を持ち合わせていないからアメリカ軍になお引き続いて日本に留まってもらい日本の安全を守ってもらおうというものでした。
もちろん、これはソ連・中共などの共産主義勢力の攻撃を予想しての条約です。
このような一方の勢力とだけ結び日本を再軍備化するような内容を持つ条約には日本でも反対するものが多くしたがって講和条約・安保条約(日米安全保障条約の略)を認めるかどうかで国会はもめました。
社会党は、これを巡って二派にわかれてしまいました。
しかし、とにかく安保条約は成立しさらにこれを受けて、日米行政協定が決められアメリカ軍が、日本に留まることについての条件が細かく決められたのです。
その結果、各地にアメリカ軍の基地がでてきました。
しかし、行政協定は国会で承認をもとめられなかったため国民の反感を強め、各地の基地を巡っても今でも続いています。