稲作が始まったのはいつ頃のことでしょうか?
稲作りがどのうようにして伝わったのかわかりやすく紹介します。

弥生時代の人々が住んでいた跡を調べると時々真っ黒になった米が発見されていることがあります。
土器の底にもみの跡の付いたのを見ることもあります。

これはその頃の人々が稲を作って生活をしていた大切な証拠です。

このような証拠に九州地方から東北地方にいたる日本の各地で発見されています。
今、日本で作られている稲は細かくわけると多くの種類がありますが大きく分けるとどれも日本型という仲間に入ります。

弥生時代に作られていたものも、ほとんどがこの日本型と言われる稲の仲間でした。
米粒がわりあい丸みを帯びた形をしていてインド型と呼ばれる細長い形をしたものとは違っています。

けれどもこの日本型の稲も日本が原産地ではなく、やはり外国から伝わってきたものです。
稲の原産地は細かいことはわかっていませんが大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかであろうと考えられています。

稲の伝わり方

稲がどうのようにして伝わったか、その道筋については3つの説があります。
まず1つめは東南アジア、中国南部方面から大陸を北へ進み、朝鮮半島を経て日本に伝わったという説。

2つめは、中国南部方面から台湾や沖縄などの島づたいに日本に来たという説。

3つめは、中国南部方面から海を渡って南朝鮮を通り日本へ来たという説があります。
どれもまだはっきりしたことはわかっていません。

ところで、稲を作るのか簡単なことだと思いますか?
稲を作るには難しい技術や知識が必要です。

なので、ただ稲が伝わってもすぐ日本で上手く作られたとは思えません。
おそらく稲とともにかなりの人が日本に来てその作り方を広めたと考えられます。

静岡県の登呂遺跡は弥生時代としては終わり頃のものですが、ここに水田の跡が残っています。

これは世界でも珍しいことです。この水田にはあぜが作られていました。

長さ1メートル以上もある木の板や棒を二列に並べその間に泥を詰めてあぜにしたのです。
あぜの幅はおよそ50センチぐらいでした。

この板や棒は何万もあったといわれていて、その上綺麗に削られていました。

金属の道具を使って作ったのだろうとは思いますがそれでも大変な仕事であったと想像できます。
また、あぜの他に田に水をひく水路も作られていました。

田の面積は大小様々ですが大体は13~23アールくらいでした。
登呂遺跡の水田を見ると今の水田とそんなに違いがありません。

ですが、稲作りの方法は、今と大分違っていました。

種の蒔き方についてはまだはっきりしたことはわかっていませんが、おそらく田に直接種を蒔いていたのではないかと考えられています。

その他、肥料をやったかどうかなどは全くわかっていません。

秋になると収穫が行われます。
それには石包丁という道具が使われました。
丁度、包丁のような形をした道具でした。

刈り取った稲は日に乾かしてから倉庫に蓄えておきました。
倉庫は家の近くにあって床が高く階段がつけられていました。

また、ネズミが入らないように「ねずみ返し」という板のようなものが床柱にハメられていました。
こうして倉庫に蔵められた稲は必要に応じて杵と臼を使って脱穀しました。

杵を振り上げて脱穀をしているところが銅たくに描かれたています。
この頃の稲作りの道具は大抵、木で作られていました。

登呂遺跡や奈良県の唐古遺跡などからは木のくわなどをはじめ田下駄や田舟などが発見されています。
田下駄は水の多い田の中を歩くときに使ったもの田舟は稲などのものを運ぶ時に使ったものでした。

稲は熱帯地方が原産地ですが、この頃の人々は大変な努力をして寒い地方にまで稲を作ることを広めました。

北九州から広まった稲つくりは次第に東に移り、近畿地方から関東地方へさらに東北地方にまで広がっていきました。

青森県の弘前市の近くに田舎館という村がありますが、ここに弥生時代の遺跡があって稲作りが行われていたことがわかっています。

当時の人がお米一粒を見て「こんなものいくら食べてもお腹いっぱいにならない」なんて思って投げ出したりしなかったお陰で今の美味しいお米が食べられるんですね。

感謝感謝です。日本の歴史にお米ありです。

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