日本の歴史を学ぶ上で当時の食生活を知るのは大切なことです。

この頃の人々は主に米を食べていました。
弥生土器にこしきと言う底に穴の空いた土器があります。

この土器に米を入れて水の入ったかめの上に置き、一緒に火をかけて蒸したのでしょう。

米の他にも魚や獣の肉、果物なども食べました。
また、麦・アワ・ヒエなど畑の穀物も段々つくられるようになっていきました。

この頃の人々の衣服については今のところはっきりとしたことはわかっていません。

ただ、登呂遺跡から麻で織った繊維の切れ端や機織りの道具が発見されています。

この機織りの道具はアイヌ人が使っていた「すわりばた」と呼ばれるものによく似ています。

また、「魏志倭人伝」という中国の本によると布を体に巻きつけたり、敷布のようなものに穴を開けて
そこへ首を通して衣服にしていたと書かれています。

この他、飾りとして勾玉やガラス玉などを首や手足に付けていたと思われます。

この頃の住まいは縄文時代とほとんど同じようなたて穴(竪穴)式住居でした。

地面を深さ50センチくらい丸く掘り、柱を建てかやなどで屋根を塞ぎました。
家の真ん中には囲炉裏がつくられ、ここで火をたいたりものを煮たりしていました。

寒いときには囲炉裏の火は住まいを暖めるという大切な役目をしていました。
屋根には煙を出す穴もつくられていました。

また、床の隅に大きな穴が掘られていることもありました。

ここに土器などを入れてその中にものを蓄えていたと思われます。

信仰

大雨や日照りが続いたり大風が吹いたりすると、たちまち米のとれ高が減ってしまいます。
そのためこの頃の人々は縄文時代の人々よりも一層、自然の恵みを受けて米がよく実るように、お祈りやお祭りなどの行事が盛んに行われていたようです。

またこの頃になると死んだ人を手厚く葬るという習わしが起こってきました。

人々は村の近くに墓地をつくり、かめ棺・はこ式棺などと呼ばれる棺の中に死体を入れて埋めました。
死体と一緒に剣や鏡などを入れることもありました。

かめ棺は大きな素焼きのかめを二つ合わせて作ったもので北九州で多く発見されています。
はこ式棺は平たい石で細長い箱のようなものを作り上に石で蓋をしたものです。

この他支石墓という変わった形の墓も作られました。
数個の石を置きその上に大きな平たい石を載せたもので、ちょっと低い机のような形をしています。

死体はその下に埋められていました。

村のはじまり

稲を作るには種まきから取り入れまで同じ一つの土地を使います。
そのため、鳥や獣・魚などを獲って暮らしていた頃のように、獲物を追って住まいを移す必要はなくなりました。

一つの土地に長く住みつくようになりました。

また、稲を作るには大変手数がかかるので、これまでよりも一層、力を合わせて仕事をすることが必要になりました。

こうして、人々は村をつくり共同生活をするようになってきたのです。
弥生時代の遺跡を調べると数件、あるいは十数件の住まいが固まって作られています。

こういう塊がいくつか集まって村が作られてったのでしょう。
また、最近では稲作りのできないような海岸地帯や山の上の方にも弥生時代の住まいの跡が発見されています。

このようなところに住んでいた人々は稲作りなどはせずに、まだ狩りや魚とりをしていたのかもしれません。

しかし、平野の人々との物々交換が行われていたと考えられているので、こういうところに住んでいた人々も米を食べることは出来たと思われます。

狩りや魚とりをして生活していた時代には食物を蓄えておくのは中々難しいことでした。
そのため、獲物が少ないときなどは食べるものがなくなり人々は大変苦しみました。

しかし、米は蓄えることが出来るので食べ物の心配はこれまでよりもずっと少なくなり、人々の生活にゆとりができました。

また、米のとれ高が多くなると皆々が稲作りに従う必要がなくなってきました。

そして、土器作りを専門にする人、農具作りを専門にする人などが現れてきました。

そのため、よい道具が出来るようになり米のとれ高は一層増えて人々の生活は、ますます豊かになっていきました。

ある意味、職業選択の自由が生まれたようですね。
衣食住が満たされ、次の段階に欲求が向かっているようです。

関連記事