弥生式土器は縄文式土器に比べていろいろな違いがあります。
まず、色ですが縄文式土器が黒やねずみ色が多いのに比べて弥生式土器は大抵は赤っぽい色をしています。


硬さは縄文式土器よりも固く厚さも薄くなってきたからだと考えられています。
つまり、土器作りの技術が進歩したのです。

また弥生式土器は縄文式土器に比べて模様が少なく、あっても幾何学的な簡単なものが土器の一部分につけられているということです。

弥生土器の形はものを蓄えておくための壺、ものを煮炊きするためのかめ、食器としての高つきや鉢などと使い道によってはっきりと区別されています。

弥生式時は縄文式土器のように形や模様に大きな変化はありませんが、それでも時が経つに連れ、また場所が変わるに連れて少しづつ変化しています。

この変わり方を基準ににして弥生文化の伝わりかたを知ることが出来ます。
今のところ弥生文化は北九州から始まり、それから段々と東の方へ伝わっていったと考えられます。


ところで弥生文化はどのようにして起こったのでしょうか?
この時代には大陸から農業や金属器を伝えた人々がかなり渡ってきたと思われます。

この人々が持ってきた文化を周りの人々に伝え、前からいた人々はこの文化を取り入れました。

こうして、新しく来た人々も前からいた人も一緒に生活をするようになりました。
新しい弥生文化が生まれていったようです。

関東地方や東北地方の弥生式土器の中には縄模様が付いているのがあります。
これは縄文式土器の模様の付け方をそのまま使ったもので、縄文文化が弥生文化に変わっていく様子を示しているものと思われます。

弥生式土器の名前の由来

1884年(明治17年)東京大学の有坂鉊蔵という人が東京都文京区本郷弥生町の貝塚から縄文式土器とはかなり様子の違う土器を見つけました。

これが縄文式土器と区別するため、弥生町の土器と言われだし、さらに弥生式土器と名付けられました。
この土器の名前から弥生文化という名も起こったのです。

この土器の発見された貝塚は、今でははっきりわかりませんが今の東京大学の敷地内にあることは間違いないようです。

東京大学には日本の歴史を変えてしまう何かが眠っているかもしれませんね。




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